
色とりどりの明かり、ネオンサインが彩る通りを、女性が一人歩いていた。
スカートからすっと伸びた足はタイツに覆われ、羽織っているのは仕立ての良いコート、
アッシュグレイの鞄には、小さなぬいぐるみのストラップ。
夜更かしした今どきの大学生に見える彼女の肌はしかし、
寒風に晒されてかさつき、目の下は墨で塗ったように黒かった。
生気のない目をただ前に向け、重い足取りで、行き先もなく歩いていた。
その正面に、警官の姿を目にする。彼女はその視線を避けて路地へ入った。
18歳を越えていれば強制的に返されることこそないだろうが、
一人歩きをする若い女性に、警察がどの程度『親切に』するか解らなかった。
実家から、捜索願が出ているかもしれない。親元に帰るよう説得されるかもしれない。
家族は――母親は、もう子を失うまいとして、彼女を連れ戻そうとするだろう。
家には絶対に帰りたくない。
だが、行く宛もなければすることも無い。財布の中にはもう、小銭しかなかった。
八方塞がり。
壁に背をつけて地面に座り込んで、そこで動けなくなった。
雑居ビルの間の路地から見上げる空は細く、その間隙に、大きな雪片が次から次へと舞い落ちてくる。
空からこの狭い間隙に吸い込まれるようにして落ちてくるそれを、喜ぶことも、疎むことも面倒だ。
まるで谷底のよう。
いつ落ちてきたんだろう。落とされるようなことを、わたしはしたんだろうか。
……したのだ、きっと。
泣く気にすらなれなくて、ただただ途方に暮れる。
その時だ。
彼に見つかったのは。
彼は退魔師だと名乗った。
彼女の家の事を知っていた。彼女の境遇を知っていた。
神の実在、妖怪の実在を教えて、そして、
泰元元年。八矢清、19歳の冬のことだった。
八矢清
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「おう賀茂、久しぶりじゃねえの。 元気?嫁サンと仲良くやってる?」 |
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「……ああ、そういうのはいいのいいの!弟子と二人、暫く世話んなるぜ」
「あ?弟子だよ。何だと思ってんだ」 |
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「あとはー、出張費なんだけどぉ」 |
深谷が賀茂さんと話している。
賀茂さん。深谷の古い知人という事しか、わたしは知らない。
顔も覚えていない。良く見ていなかったし、
余計な口を挟まない方がいいんだって、わたしは思っていたから。
ただ、見つかった妖怪が弱ければいいなと。
簡単に祓えるようなものなら、深谷は呼び出されたりしないから、弱いなんてことはないんだけど、
少しでも楽に、早く、終わればいいなと思っていた。
… …… ……… ……
仕事は大変だった。楽な仕事など殆どないが、今回は別格だ。
相手は無数にいた。妖怪は、別の妖怪を呼び寄せる。
妖怪が増えればその土地は病んで、より強い妖怪を寄せつけるようになる。
その中心だったのは化け猫だ。年を経た妖怪は、人の姿すら取る。
妖猫は、少女の姿をしていた。
街の中を何日もかけて追いかけた。見つけたと思ったら反撃にあって、
わたしは背中を引き裂かれ、酷い傷を負ってしまった。
だけれど、深谷が間に割り込んで、どうにか始末をつけてくれて、
それで、長い仕事はようやく終わった。
わたしと深谷は、イバラシティに戻ってくることが出来た。
戻って来た。
戻って来たんだ。
… …… …… ………
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「そんな急ぐことなかったじゃねえかよ」 |
フェリーの上で深谷がぼやく。急がせたのはわたしだ。
一刻も早く、イバラシティへ戻ってきたかった。
戻ってきたらたくさんの事が、やり直せるような気がしていた。
何だって、前よりもっと上手くやれると思った。
今度こそ絵をたくさん描いて、心を緩めて、楽しい暮らしを手にして
話したい事を、たくさん話して
今度こそ。
今度こそ幸せになろうと
わたしが失ったものを、取り返すために。
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「……清?」 |
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「はい、お師様」 |
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「おい」 |
はっとする。
深谷がひどく怪訝な顔をしていた。
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「自分でそう呼べって言ったのに」 |
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「いつの話をしてんだよ。大丈夫か、清?」 |
溜息を吐いた唇は黒く、しかめた顔も黒かった。
おかしいな。なんだか深谷、妖怪みたい……いや、それで合ってる。
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「記憶は確かか?」 |
頷けない。わたしは少しの間、黙って、記憶を整理しなくてはならなかった。
わたしの名前は八矢清。栄平22年5月の生まれだ。
今年24歳になったと思うけれど、正確なところはわからない。
わからないのが正解だ。
わたしは、5月に24歳になった。11月にアンジニティに落ちて、それ以降は時間の感覚がない。
……この記憶は本物だ。
職業は退魔師。退魔師の弟子。
アルバイトはどれも長続きしなかったし、本業をいつだって優先していたから、
フリーターを名乗ることは滅多になかった。
友達はいない。趣味はない。
話相手といえば、深谷以外には、飲み屋の店員やホステス、神社の関係者くらい。
その全てが深谷を間に挟んだ知人だったから、わたしの知人なんてものはいなかった。
そも、知人を作る時間すらなかった。妖怪を追って祓って、狩り尽くせば引っ越す、その繰り返し。
それが退魔師というものだと言われれば、疑問の浮かびようがなかった。
それがわたしの現実。
確かめてみればひどくつまらない人間だったけれど、わたしはその暮らしに満足していた。
自分で物事を決めなくて済む、深谷に任せきりの暮らしは楽で、心地よかった。
だから。
だからわたしは、その暮らしを、深谷を、失わない為に。
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「ああ」 |
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「そうだった」 |
わたしは妖怪退治などしていない。化け猫を追ってなどいない。
少女の姿が目に浮かぶ。それはハザマでの出来事。
なぜ侵略するか問われたのも、不可視の獣に襲われたのも。
ワールドスワップ。
わたしには、イバラシティに滞在するに相応しい記憶と仮の姿が与えられていた。
神妖を見る目は閉じ、本来あった力はその殆どを失ってしまったが、ひどく幸せな人間になっていた。
趣味があって、友達がいて、愛しいひとがいて。
前回も、今回も。同じことが起きていた。
本当はさして仲良くもない、一度二度言葉を交わした程度の人間がすっかり友人になっていたし
わたしは23歳の時にイバラシティへ来て、24の誕生日もそこで迎えた事になっている。
これまでの人生で、見向きもしなかったコンビニのケーキ。
同年代の知人と楽しむ忘年会。バイトとはいえ頼りにされる喜び。
わたしは、現実で過ごした事のない幸福に怯えていたように思う。
胸の悪くなるようなそれが、侵略に必要だったなんて。
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「思い出したみてぇだな」 |
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「またここに戻って来ちまったな。……いや、こっちが居場所か。 ま、どっちでもいい」 「主人様。命令をどうぞ」 |
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「他人事みたいに言わないでくれる?」 |
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「他人事だからよ」 |
頼ることはもう許さないと、前回の侵略の終わりと何ら変わりのない態度。
当然だ。深谷は侵略なんて望んではいない。それを無理に付き合わせているのはわたしだから、
今更それに傷つくことはない。
わたしのする事は決まっている。
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「仲間を……見つけなきゃ |
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「へえ?」 |
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「必要でしょ?」
「数を頼みにかかられたら、わたしは勝てない。 深谷がいて、式神がいたって、扱うのはわたし一人だもの」 |
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「正面からぶつかっても、見えない獣一匹いるだけで勝てなかったんだから、 一緒にいてくれる人を探すのは大事だよ」 |
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「別に言い訳しなくたって、仲間が欲しいのはおれも同じだよ」 |
ざっと音を立てて、獣の足が地面を踏んだ。猫の爪が横を向き、遅れて馬の足が続く。
周囲にいるのは無数のアンジニティの民。様々な思いを抱いて侵略を試みる彼らと共に、
わたしも進まねばならない。
次元を渡るタクシーに乗って、降りた地点から……チナミ区から、わたしの侵略が始まる。
勝てば全部の事が、やり直せるような気がしていた。
何だって、前よりもっと上手くやれると思った。
……やりたい事なんて、何一つ浮かばないけれど。
今度こそ。
今度こそ侵略を遂げる。
わたしが失ったものを、取り返すために。
……ひどく汚い男だった。
荒れた長髪に、手入れの気配もない無精髭。
このご時世に和服なんて着ていて、皺だらけの羽織が、妙に似合っていたのを覚えている。
彼は清に食事を摂らせながら、こんな話をした。
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「才能だよ。神にお仕えするに足る素質」
「……妖怪を祓う力っつってもいい」 |
神の存在はどうでも良かった。会っても、救ってもくれない神などいないも同じで、
わたしの興味を引いたのは、妖怪の実在だった。
何もかも妖怪のせい。妖怪を滅ぼせば、少しは、何かが取り戻せる。
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「よくもまあ、そこまで人間捨てられたモンだ」 |
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「ま、安心しろ。 望み通り、お前はおれが使い潰してやるよ」 |
わたしはそれを聞いて安堵した。もう二度と、自分の事を自分で決めずに済む。
わたしは疲れ切っていて、意見を持つことすら億劫だったし、
この男が好きに使って捨ててくれるならそれで良かった。
それが兄を、わたしの家族を奪ったものへの復讐に使われるなら、もっと良い。
深谷は、わたしの全てだ。
そうでなければならなかった。
深谷
フカヤ。本名を三劔司(ミツルギ ツカサ)。35歳。神社の依頼を受けて妖怪を狩っていた退魔師。八矢清を拾い、弟子とした。