平穏と騒乱の中に揺れる《響奏の世界》イバラシティ。
この世界は今、異界の侵略行為に晒されている真っ最中だ。
その相手こそは《否定の世界》アンジニティ。
一度堕ちれば脱出不可能な監獄として、一部では有名な世界である。
彼らが侵略行為に走ったのは、それがあの世界から脱出出来る稀有な機会だったからだろう。
荒れ果てた大地と安息の地すらない治安を思えば、イバラシティの様な場所は天国だ。
暫く前に逢魔が時という不安定な時間に垣間見た白昼夢。
やたら煩い『榊』という男が語る事によれば、この侵略は何者かの能力によるものなのだという。
随分と大規模な力――何と言っても世界二つを全て影響下に置くものだ――だが、その能力の主の目的とは一体何なのやら。アンジニティに封じられた者達は、基本的には危険人物が殆どである。それらを『外』に解き放つ可能性を理解した上で、譲れないものでもあるのだろうか。情報は足りず、未だ確かな判断は出来そうにない。
「一番面倒なのは、アチラの側での記憶が継続されんことじゃな」
やれやれとヴィーズィーは六条間の畳の上でごろりと転がりつつぼやいた。頬杖を付き片手にはテレビのリモコン装備、仮面越しに見る先には32型の液晶テレビがある。今はお昼のワイドショーの時間で、芸能人司会が益体も無い話を笑い飛ばしたりツッコんだりする度、大して面白くも無いというのに「ワハハ」という笑い声が響いている。
「薄々そういう感じになるのではと察しておったが、此処まで徹底されておるとは……うーむ厄介な。アチラの様子がちぃとは探れるかと期待したんじゃがのぅ。現状の把握すら曖昧では、探るどこではないわい」
自覚はないが、既にアンジニティとイバラシティによる世界争奪戦の場『ハザマ世界』で何らかの騒動を経験しているだろう事は認識済みだ。それもこれも、協力者による外部観測を経た上で判明しているだけで、一体何をしたのかどういう状態にあるのかまでは流石に分かっていないのだが。観測と言っても、ほんの一瞬のノイズにも似た何かが検出されただけだからだ。
協力者曰く、その時点でこの世界から消え失せたりしている様子は多分無いという話なので、何らかの映し身或いは最初期の状態を世界規模で記録しておいてそこに意識と記憶を流し込んでいるのではないか……という話だった。
何にせよ厄介な話である。
あちらで怪我でもすれば分かるかと思ったが、そういう気配もない。
ハザマの内側での出来事は基本的に普段の世界には反映されないらしい。
「しかし一部は例外を突くことも不可能ではない……のかもしれんな。ま、これはバグかもしれんが」
ヴィーズィーはそう言って、視線をテレビのすぐ横へ向けた。日当たりのより窓辺近くの畳の上で大の字になって転がっている黒猫が居る。金の鈴と赤いリボンを首輪代わりにしたこの猫は、見た目通りのただの猫ではない。ヴィーズィーが異界で一緒に暮らしていた、同居人の造り出した使い魔だ。魔力の在るインクで出来た身体を持つこの黒猫――メランは、一匹だけではなく複数存在している。そのうちの一匹を借り受けた訳だ。
「此奴が此処に居る、しかしわしにその記憶はない……という事はハザマでわしが喚び出したという事じゃろう。この世界にある異能としての『召喚』ではない、わし本来の技術である『召喚式』で」
大欠伸をしているこの黒猫には、使い魔というだけあってただの獣ではなく、それなりの知性と理性が存在している。しかし、それでもハザマの記憶がないのは既に確認していた。どうやってもハザマ時間における行動はこちら側に持ち込めないらしい。しかし、存在は継続している。これは多分、稀有な例だろう。
「わしの式はちと特殊じゃからな……界の内側の存在力を代償に、異界の存在を場に留める。そしてその楔として術者の存在が在る故に、召喚対象はわしからは遠く離れられぬ。ハザマ世界は、正しく異界の一種じゃ。アチラにメランが留まれば術式としての齟齬が発生する。故に、こちらに元より存在している形として再構築された……という所かの」
『それにしても異例に過ぎるとは思うが』
呆れたような声が口を挟んできた。
声の出処を見れば、ちゃぶ台の上に無造作に置かれた水晶玉がほんのりと輝いている。
「実験じゃよ実験。こちらのわしも、ハザマのわしも多分同じ事を考えたのじゃろう。この世界とアチラの世界、そしてハザマ世界の特性をしっかりとわしは理解しておらん。それを確認したかったのではないのかのぅ? ……ま、それ以外にも理由はあろうが」
『実験以外に、使い魔を敢えて召喚した理由……? まだ何かあるのか』
「……ま、多少はの。何れ話すわい。何れ、のぅ」
『ろくでもない気配がする』
「今に始まったことではなかろうが」
ククク、とヴィーズィーは笑った。
リモコンをテレビへと向けながら、続ける。
「わしのやっておる事は大概、ろくでもない事じゃよ。おぬしの知る通りに。……が、しかし、これもまた必要であるが故に、の。次の観測も頼むぞ。おぬしは、何と言っても範囲外に居るわけじゃしな」
『……心得ているさ』
「心強い事じゃの」
仮面の下でニンマリと微笑む気配。
指先が赤い電源ボタンを押せば、プツリと画面は暗転するのだった。