ほんの少しの目眩に近い気配と同時、世界が切り替わる感覚。
慣れたものだ。
それは今まで散々得てきた感覚では在る。
「が、しかし……他者に強引に切り替えられておるというのはどうにも落ち着かんな」
既に数度のハザマ世界への来訪を経た上で、そんな感想をヴィーズィーは呟く。実際、イバラシティと異なり荒れ果て淀みどこか退廃的な気配の蔓延るこの異世界は。決して長居したいと思える場所では無かった。そこへ、自らの意思ではなく誰か──本当に一体どこの誰がこれだけの規模の力を行使しているのか、現状では予想すら出来ない──の力によって跳ばされている訳である。落ち着く方がおかしい。
とはいえ、問題はその程度だ。衣擦れの音を立てて袖の中からズルリとヴィーズィーは長物を引きずり出した。身の丈ほどもある、それは錫杖である。宝石で飾られた先端で、金属のリングが涼し気な音をたてる。
「こういった事がアチラではし難いでな。その点だけは、ハザマの方が気楽じゃわい。……まあ手品と言っても限界もあるしの」
ただの占い師を標榜している身だ。行動に程度制限がかけられてしまうのが、科学文明の程々に進んだ世界に生きる際の面倒な所である。が、それも納得済みでの来訪だ。あまり文句も言えまい。くるりと手の中で錫杖を回せばヴィーズィーは軽く首を鳴らした。
「……? 何をしようとしてるんだ? お前」
訝しげな声が後ろからかけられる。
「〝お前〟ではない。ヴィーズィー、じゃよ」
肩越しに名乗りつつ振り返れば、一人の少年が険しい顔でヴィーズィーを見ていた。彼は、初めてハザマ世界に飛ばされた時から行動を共にしている連れである。お互いに見知らぬ同士──と言っても、彼はヴィーズィーを見たことがあるようだったが──ではあったが、敵を前にすれば共闘するのが最善と判断し一緒に行動する事になったのがほんの少し前の事だ。とは言え、それはこのハザマ世界での経過時間だけを数えた場合であって、実際はその合間にかなりの日数がたっているのだが。
何にせよ、怪訝げな少年へとヴィーズィーは口を開いた。
「わしらだけでは、ちぃと心許無いでな。助力になりそうな者を招こうと思うての」
「助力になりそうな者……? 何だ、近場に協力者でもいるのか」
「居ないわけでも無いが、今回はちと違う」
シャンッ、と錫杖が音を立てて荒れ果てた地を打つ。そこを起点として、瞬時に輝く魔法陣が展開された。大きさにして半径3m程のそれはほんのりと輝きながら明滅している。
「なっ!? 何だこれは!?」
「魔法陣じゃよ。見たことは無いかのぅ? ……ま、イバラシティの様な環境ともなればさもありなん、といった所じゃが」
目を瞬かせる少年をよそに、ヴィーズィーは離れた所で待機していた別の影を手招いた。とてて、と軽い足音を立てて駆け寄ってくるのは普通よりも明らかに大柄な黒猫である。このハザマの生き物の様で普通の黒猫よりもぎょろりとした目つきが少々心臓に悪い、そんな猫だった。性質も好戦的で、実際に二人は戦ったこともある。が、こうしてヴィーズィーの眼前にまで走ってきた大黒猫はというと、すっかり懐いた飼い猫のように大人しいものだった。
それもその筈、この大黒猫はヴィーズィーの操る『使役』の力で無力化されてしまったのだ。
異能。
それは、《響奏の世界》イバラシティに生きる人々が当たり前の様に持つ、異質な力である。中身も人それぞれ。自分の内面だけの変化に留まる者もいれば、自分の周囲に多少の影響力を与える様な異能の持ち主も居る。一概に「こういうものだ!」と定義しにくい固有の才能のようなもの。それが異能だった。
ヴィーズィーは勿論、外界からの来訪者である。異能なんてものは──それに近いものを持っている事を否定はできないが──持っていない。が、世界にあふれる異能の原点や理を密かに解析し、再現する事ぐらいは出来ていた。異質な外界の力は、ただでさえ不安定なイバラシティとハザマ世界に余計な歪みを生みかねない。ならば、元より世界に存在していた力を真似たほうが安全だろう。そう判断したからだ。
大黒猫を支配下に置けたのも再現された異能の力によるものである。『使役』と一般的に言われるその力は、一度打倒したハザマの原生生物を支配下におけるというものだった。もっとも、力が及ぶかどうかは運次第なところもあるので、確実性は薄いのだが。
そんな訳で、無事に自らの下僕──俗に、『エイド』と呼ばれているようである──と化し足元にすり寄ってくる大黒猫をわしゃわしゃと撫でた。これから行おうとしている事は、ヴィーズィーですら少々骨が折れる作業である。この猫の存在があればそれも多少は楽になるのだが。
魔法陣の中心に大黒猫を座らせて、ヴィーズィーは錫杖に手をそれた。遠方から幾分不安げな眼差しを送ってくる気配を感じつつ、詠唱する。
「界隔て、在りし其の身を請い招く。天を天に、地を地に。等価の巡りの元、一を一に」
魔法陣の輝きが強くなる。
その輝きの中に大黒猫の姿が溶け込んでいき──…
光が消え失せた時、そこには別の黒猫の姿があった。
「めにゃーん!」
元気よく個性的な鳴き声を上げるのは、大黒猫よりももう少しスマートな普通の猫程の体格の黒猫だった。首には鈴のついたリボンを付け、どこか誇らしげな顔で見上げてくるのを指差し少年が困惑の声を上げる。
「め、めにゃ……!?」
「おお、メラン。無事にこの世界に喚べた様じゃな。善哉善哉」
「さっきの猫が消えて、コイツが現れた……一体何を?」
「んむ。擬似的な召喚術じゃ」
「擬似的な……召喚術? 異能の『召喚』とは何が違うんだ」
警戒の色の濃い表情の少年へとヴィーズィーは続けた。
「異能の『召喚』は、あくまでこの世界や関連性の在る場所からの喚び出しに過ぎん。今行ったのは、全く異なる異界のリソースを追加で持ち込む、というヤツじゃよ。これをゼロからするのは中々に難儀での。故に、大熊猫を触媒とした訳じゃ」
「触媒……?」
「命というものは、どれほど世界が変わっても価値の変わらぬリソースじゃ。虫も、獣も、人も、それ以上の何かですら、付随する多種多様な情報を剥ぎ取れば結局『命』という一単位のものでしかない。あらゆるものの間に上下はなく、全てが全て、等しくなってしまう。……それを利用し、同じリソースを持つ者同士に繋がりを擬似的にもたせ、それを伝って異なる世界の情報をダウンロードしインストールする……と。まぁ、そんな感じじゃな」
「???」
「……何となくは分かるが今ひとつ理解できん、という顔をしておるな」
魔術などという世界とは縁遠いのだから、明確なイメージが湧きにくいのも仕方ないのだろう。
「つまりじゃな……
わしのターン、ドロー! わしはフィールド上に存在する『大熊猫』をリリースする事で手札の『使い魔メラン』を守備表示で特殊召喚する! ……という事じゃ」
「何でかわからないがよくわかった」
疲れた顔で呟く少年。
「でも、大熊猫のままじゃ駄目だったのか? 別に戦力としては……対して変わらないんだろう?」
「まあのぅ」
うむ、とメランを抱き上げつつ頷いてみせるヴィーズィー。
「じゃが、ちとわしとしては此奴にしてもらわねばならん仕事があるでな。その為の労力じゃよ。……ともあれ、よろしく頼むわい」
そう言って、少年へとヴィーズィーが頭を下げれば、腕の中の黒猫もまた「めにゃーん!」と鳴いてみせるのだった。