その時。
矢那 柳 は赤子を抱き、諦めて、覚悟を決めていた。
何を諦めていたかというと、自分の体を休ませ、睡眠をとることだ。
何の覚悟を決めていたかというと、次の授乳時間――赤子が腹を空かして泣いて目覚めるまで、赤子を抱いて揺すり続ける覚悟だった。
腕の中で、赤子は今こそ寝息も聞こえぬほど寝静まっているが、――いつもではないが、しかし大分高い確率で――柳が揺するのをやめて布団におろした途端に起きて泣き出すようになった。
慌ててまた抱きあげて揺すり、寝静まったらおろす――と、また、泣く。
それを既に四度繰り返していたら、前に乳を飲ませてから1時間が経過していた。
これまでのパターンからこの赤子の授乳間隔が1時間半なのは把握している。
もう、次の授乳時間まで30分もないだろう。
生後12日。
その我が子がミルクを与えても、おむつを替えてもすぐに寝入ることなく泣き叫び続けるようになったのは五日前からだ。
これによって普段の世話の他に、抱いて揺すり寝かしつける必要も出てきた。
昼夜関係なく泣く我が子を十数分抱いてあやし、眠ったと思って布団に置くと瞬時に泣きだすのも、柳にとってすでに珍しいことではなくなった。
妻に全てを任せる以外では、赤子が寝ている間しか睡眠を取ることが出来ない。
だが、こうして腕の中で眠られてしまうと、自分は眠るわけにはいかない。
昔は良かった…。などと、六日前までの事を思う。
とびとびの睡眠にはなるが、少なくとも1時間ずつの睡眠はほぼ確実にとれた。
産後でダメージの残る妻にはまだあまり無理はさせたくなかった。
退院日からほとんどの家事も請け合い、妻には授乳だけ頼むことにしていた。
――体に疲労がたまってきている。
カーテン越しに差す紅い西日が、寝不足の眼に痛い。
その時。
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榊 「 グッ……イィィブニンッ!イバラシティにお住まいの皆さまッ!!」 |
目に――いや、頭の中に直接飛び込んできた男の映像と、テンションの高い大声に、柳は数年ぶりにブチギレそうになった。
「……………は?」
思わず口から出た声は、自分でも驚くほどに低い。
「榊がお伝えいたします!突然ですが何者かの『侵略能力』によりこの世界は」
「ああああああー!あああーーー!あーーーん!」
男が名乗りをあげたのとほぼ同時。
腕の中の赤子が火の付いたように泣き出した。
(ふざけるな……)
いったい、どこの、馬鹿か。
泣き叫ぶ赤子をあやしながら、頭の中の男に呪詛を投げる。
テレパシー系異能の悪用は時折ニュースにもなる。
詐欺に使う者もいるそうだが、たいがいは愉快犯が多く、いたずら電話のように不特定多数に通信し、騒ぎを起こすらしい。
頭に今流れている『これ』も、その手合いの代物だろう。
それにしても何という時に……。
大音量で泣き喚く赤子。
脳内でまくし立てる、妙に癪に障る男。
板挟みになった精神がザリザリと削られていくのを感じる。
柳は男のことは極力無視をして、赤子を揺すり、あやすのに徹した。
あやす。
あやす。
「それでは皆さま―― ……ご武運を。」
赤子が泣き止み、また眠ったのと、男が話を締めくくったのはほぼ同時だった。
脳内の映像も消える。
――何だったのだろうか。
赤子の泣き声でほとんど聞こえなかったが(聞くつもりもなかったのだが)、随分荒唐無稽で、人の不安を煽るような内容だったような。
……いや、イタズラは、気にしたら負けだろう。
もしかするとこの子が泣いたのもあのテレパシーのせいではないのか。
いや……単に、腹が減ったのかもしれないが……。
もう次の授乳時間が間近だ。
考える余裕もなくとにかくあやしたのだが、授乳してしまえば良かっただろうか。
あの男は地獄に落ちろ。
(……駄目ですね…。もう)
先ほどの事のせいで、寝不足でボロボロの精神に更に酷い負荷がかかった。
思考に纏まりがなく、殺伐とした気分だ。
あと、20分……。
あるいはその前でも、また子が泣いたら、今度は寝室で休んでいる妻の元へ連れて行こう。
そして、妻に子供を託し、2時間は眠らせてもらおう。
今日の夕食は料理をせず、出前をとることにしよう。
そう思考し、そうっとため息をつき――。
ふと、カーテンの隙間から入る西日がおかしな色合いになっている事に気が付いた。
不思議に思い、子を抱きながらカーテンの端から外を覗く。
思わず息を呑んだ。
これほどまでに不吉に渦巻く色を、柳は見たことがない。
それも境界でもあるかのように自分たちの街を包む空のみが異様な色に染まっているように見えた。
まるで、そこだけ空に取って代わって『なにか良く無いもの』が、一体にのしかかっているようだ。
己の根源的な恐怖を呼び起こされたような感覚に見舞われ、窓から一歩後ずさり――
「陽香」
――無意識に呟いて、踵を返して妻の寝ている部屋へと向かう。
(あの男……)
あの頭の中に出てきた男、この世界が侵略されるだの、妙な事を話していなかったか。
あんなものを信じはしない。
しかし、嫌な予感が背中を押す。
寝不足でおかしな考えになっているだけだ、とも分かっている。
それでも、とにかく一刻も早くもう一人の絶対に守らねばならない存在の無事を確かめたい。
一分一秒がもどかしい思いで扉に向かい、戸を開けようとしたところで、扉は勝手に内側に開いた。
「うわ!びっくりしたー」
そこにはちょうど扉を開いたらしい妻――陽香が、驚いた顔で立っていた。
驚いたのは柳も同じだったのだが、それよりも安堵が勝ち、詰めていた息を吐きだす。
大丈夫ですかと、柳が言い口に出す前に。
「ね、見た?空の色、すっごい綺麗じゃない?」
陽香が(眠っている子を気にして声を潜めつつも)顔いっぱいに喜色を浮かべて、言った。
思いもよらなかった言葉に柳は目を見開く。
「……きれい?」
「ごめん、授乳だよねっ。ちょ、ちょーっと、ちょっとだけ待って欲しいんだ!写真撮ったらすぐ!すぐに見るの変わるから!」
言い置いて、陽香は急ぎ足で窓へ向かうとベランダから携帯で写真を撮り始めた。
こだわりがあるらしく、様々な角度から撮っている。
シャッター音にしているらしい『ピロリン』という高い音色が何度も鳴った。
真上の空にそんなに変わった撮り方があるとも思えなかったが、柳はその姿を見て、全身から力が抜けるのを感じた。
赤子を抱いていなければ、その場に蹲り即座に眠りについたかもしれないほど気が抜けた。
次いで、恐怖し焦っていた自分に恥じ入る。
――イタズラと、空の色程度で何を恐れていたのだか――。
「撮れた撮れた。あ…ごめんね?すぐに変わるから」
満足げに室内に戻ってきた妻は、そう言って両手を差し出した。
その手に赤子を渡しながら、柳は「お願いします」と生気なく呟く。
「……ヤナ、すっごく疲れてそうだけど、大丈夫?」
「はい……。ああ、……いえ、そうですね……できれば二時間ほど、寝かしていただければと」
告げた瞬間、陽香は幽霊でも見たような顔をした。
「ヤナがとうとう弱音を!あー、これはもう駄目ですねー。だよねー!めっちゃ頑張ってくれてたもんね。
寝て寝て!4時間でも5時間でも!その間はうちがこっちの部屋で見てるんで」
「いえ、二時間……」
「ああああああーん!!うあああーー!」
訂正の言葉が、とうとう目を覚まし泣き出した赤子の声で遮られた。
全身で何かの不快を表現する我が子をぼんやりと見ながら、回らない頭で陽香に問う。
「……先におむつを替えましょうか?」
「うちがやるから、いいから早く寝るっ!」
「はい……」
妻の声と我が子の泣き声に急きたてられ、寝室へと向かう。
そういえば、陽香にあの榊とかいう男を見たかどうか、聞くのを忘れてしまった――聞いてみればよかったと気づいたのは、寝室の扉を閉めてからだ。
(まあ、起きてから聞けば……良い……ですかね)
考えながら蒲団へ潜ると、数秒もしないうちに柳の意識は闇へと落ちた。
その後――約2時間後に赤子の泣き声で飛び起きた柳は、結局日々に忙殺され、その事を思い出すこともなく。
忘れてしまった。
その事を、俺は今思い出していた。
イバラシティにいる間の俺が忘れている事でも、此処に居る俺は思い出せるようだ。
しかし……「侵略」という単語が意味深に出てきた記憶だというのに、赤ん坊の声がうるさくて話の内容がほとんど分からないのには困った。
向こうの俺が聞こえていないことは、こちらの俺も分からないらしい。
『ちょっと黙ってくれ赤ちゃん』と思うが、ただの記憶なので現在の俺にはどうしようもない。
榊とは誰だ。
エディアン・カグの友達だろうか。
「わからん。」
考えても分からなそうなので、一旦そのことは考えるのをやめる。
――それにしても、向こうの俺は大変そうだ。
こちらでイバラシティの俺が人間として生きていると知った時には驚いた。
『えー。肉かあ。』と、落胆した。
あちらは多くの植物があるところから見るに肥沃な土地だ。
本当に、不思議なほど生きてるものが多い。
見た限りでは空から爆撃されることも、歩いていて地中が吹き飛ぶこともない。
常にどこかしらが燃え盛っているというわけでもない。
せっかくそんな場所に居られるなら、本当の俺でないとはいえ、どうせなら肉でなく植物として生きたかった。
「何かの植物として生きられないか」とエディアン・カグに聞いてみたが、どうも駄目そうだ。
……残念。
しかし、得難い経験ではある。
人間という生き物の知識が沢山増えた。
知識は生きていくのに時々役に立つ。
まあ、じゃあ良いことにしよう、そう思いなおすことにした。
そして。
――人間ではあるが、あちらの俺には家族が居るのだ。
それは、とても羨ましく思う。
なんだか人間の赤ちゃんは世話が大変みたいだが……頑張れ、向こうの俺。
(……こちらの俺も、早く家族を作るために、頑張らなければいけないな。)
「えいえいおー。」
気合を入れなおして、歩を進める。