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『空間のなかで人間にわりあてられた場所はごく狭いものだが、人間はまた歳月のなかにはまりこんだ巨人族のようなもので、同時にさまざまな時期にふれており、彼らの生きてきたそれらの時期は互いにかけ離れていて、そのあいだに多くの日々が入りこんでいるのだから、人間の占める場所は反対にどこまでも際限なく伸びているのだ――』
かつて、マルセル・プルーストが『失われた時を求めて』において著したこの文章は、私に施された過去もしくは現実改変への対策を説明するために引用されたものだ。
設計者の話では、私の場合、『私の魔術の源泉である北欧神話の一部に人格を与え、霊体として管理し、記憶をアップロードすることで改変を免れる』んだとか。
プルーストの引用に倣えば、それこそ神話が語られるようになってから北欧文化圏が消滅するその日まで、過去と未来、その両方に記憶の領域は伸びて行く。
…説明を聞いた時は、『まぁ確かに普通の人の記憶をいじるよりは大変そう…』としか思わなかったけれど、こうして機能しているということは、彼らの仮説は功を奏したのだろう。
ただ、事態の広範性を顧みれば、それも長くは持たないかも知れない。
急がなければ。
私は報道官の権限で、スイス本部の総務課へと連絡を取った。
『P-15』、即ち、スペ・ストレン会長の『収容室』に繋いでもらおうとしたが、留守にしているらしく丁重に断られた。
欺瞞の可能性もなくはないけれど、彼の場合、本当に神出鬼没なので真偽は分からなかった。
電話を置くと、少し悩んでから、今度は英国支部の実動課へと連絡を取る。
目的の相手は、すぐに電話に出た。
「人間モドキが何の用だ?」
彼は英国支部の特工(特殊工作部隊)の部隊長で、筋金入りのヒューマニストだ。
よって、協会の備品である私のようなホムンクルスに対する姿勢には厳しいものがあるけれど、今は時間が惜しかった。
「断る。」
存在を抹消された本人の記憶が無事なら、こちらのセキュリティに弾かれるにせよ、定期連絡用の番号にかけて来ているはずだ。
本来ならば当事者である日本支部の管轄だけれども、それでは決裁に時間がかかる。
手早く情報を『抜ける』のは彼しかいないと思ったのだが、当然の如く断られた。
「『F-26S』。
俺は、お前が『言の葉の世界』とやらに分断されている間、首輪を外すための努力をしなかったとは思っていないし、今もそれを疑っている。
そうでなくとも――」
電話口からは、『はぁ』という溜め息が聞こえてくる。
「『A-79』のお陰でうやむやになったとは言え、一時は投票権を持つ者の三分の一が、お前を廃棄する方に票を投じている。
口には出さずとも、そう思っている者がそれだけいるんだ。
『悪質なイタズラ』とでも言うなら、俺もまだ聞かなかったことにできる。
醜聞が功績に隠れるまで、大人しくしてるのが賢いやり方だと思うが?」
私は彼の事は苦手だが、正確な仕事と、言い難い事を直截に言う所は…、何と言うか、信頼できると思っている。
彼は、私が『職員の安否がかかっている事』を告げ、重ねて頼み込むと、ついには、「上には報告しておく」という捨て台詞を吐いて、電話を切った。
『ありがとう』という言葉が、彼に届いたかどうかは、私には判断が付かなかった。
『スピネラ・フェーデ報道官の手記』