僕は逃げるように走り出した。
イバラシティの人々から見れば、僕の体は化物そのものだ。
逃げるように走り出した。
荒れ果てたハザマの世界。反転した後のイバラシティに重なる。
欲しい。愛と豊かさに溢れたあの世界が欲しい。輝くあの世界が欲しい。
だから仕方ない。こんな醜い願いを抱く僕が、イバラシティの人々に刃を向けられるのは。
傷だらけになりながら、僕は走った。
……ふと、僕に向けられた刃、炎、あるいはそれらが止んだ。
振り向けば、それは事実と少し違った。女がそれらを庇ってくれているのだ。
女の体に傷ができる。だから、僕はのそりと一歩、もと来た道を戻って。
彼女が僕を庇うように、僕も彼女を庇うのだ。
やがて……僕らに害意がないことに、いや埒が明かないからか。
その事に気づいたのか、僕らに敵意を浴びせかけていた者たちは違う道を行った。
彼女は如月 巴と名乗った。あぁ、その名その声その姿は、確かに一瀬 庵璃の記憶にある。
ありがとうと、助かったと、嬉しかったと。伝えたい言葉はいくつもある。
だのに! この体は、人の言葉を発するに苦心する。
こんな簡単なことも、伝えられない。もどかしくて苦しくて、吐きそうだ。
欲しい、人間の体が。戻りたい、人間の体に。
それでも、低く唸る醜いこの声で、伝えるのだ。「イバラシティを護りたい」と。
彼女は、小さく笑っただろうか。そして右手を差し出した。
僕の長く細い。指先に感覚など殆ど無い右手をそっと彼女の手においた。
もし。もしも僕の贖罪が、この身を苛む渇望に飲み込まれてイバラシティに反旗を翻す時。
そんな時が来たならば、どうか彼女が僕を誅してくれますように。
……また、しばらくして。彼女の説得と交渉のおかげで、僕たちは小さな寄り合い所帯となった。
老若男女の人間と怪物一匹。8人は進む。
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僕は一瀬 庵璃の記憶を有しているが、あの男と僕とは別の生命体だと認識している。
僕は彼ほどに善良な人間ではない。……そもそも人間ではないか。
僕が彼に扮して紛れ込んでいる等と説明されたが、きっと違うと願っている。
イバラシティに生きる彼の記憶が、ただ僕に流れ込んできているだけだと。
榊か、或いはその上位者か。いい趣味をしている。確かに僕は動揺している。
『Cross+Rose』にて浮かんだ、記憶の中にある顔。
黒浦 鴉。恋文 慕。
彼らの姿を確認した時、そうだ。僕は心がかき乱された。
歪んだあの体を見た時に、僕は直感した。黒浦 鴉! あぁ彼はこっち側なのだ、と!
僕がイバラシティについていなければ、もしかすれば友人である彼と!
あの街で暮らせるのではないかという事実が! 僕の心を揺り動かす。
だが、それでは恋文 慕はアンジニティに落ちると言うのか。
あの小さな体で受け止めるには大きすぎる、不幸な事実。
それがやっと前を向き始めたその時に、あんな世界に落ちるのか。
許せない。分かる。当然の怒りが湧いてくる。
それでも……僕も、あの世界で、生きてみたい。 生きてみたいのだ!