――あなたなんか産まれなければよかった。
母から、よく聞かされてきた言葉だった。それが母の口癖だった。
なぜ、愛されなかったのか。そればかりを考えて生きてきた。そんな幼少期の記憶は、決して消えるものではない。
今でも聞こえる。 母が、罵倒する声が。恐怖する声が。 ――今でも、母は壊れたままだった。
↓
雑踏を掃う。バンリ、と名乗る男は洞めいた瞳で喚く男を一瞥していた。上眉に差す濃い影が、その洞に闇を落とす。卑怯者――と、こちらに指を差すが決して、何か言うでもなく首を傾げている。何故ならば、手を出して来たのはあちらだ。バンリの頬は腫れている、あの男に殴り飛ばされて。何も、していない。更に、裾は汚れている。引き倒されて、更なる暴行に及ばんとしていたあの男。偶然、発見したお優しい通行人が男を止めて、事なきを得たのだが。
「俺こそ、何もしていない。 手前、そんな卑劣なことをして許されるとでも、」
ぎゃんぎゃんと吼える。羽交い締めにされながらも、突き付ける指。微動だにせず、唯々バンリは首を振っている。通行人は、それを暴行されたにも関わらず文句ひとつ言わぬ物静かで大人しい男、といった印象を抱いた。少なくとも。汚らしく、唾を飛ばして吼える男に品は無い。だからこそ余計、相対的に映ったのだろう、けども。そのまま、男はあえなく引き摺られてゆく。じっとりとした瞳で、延々とそれを眺めながら――バンリは、その地に瞳を。かんばせを、落とす。
笑って、いた。 ――掃われた雑踏に、そう。今は、夜闇のある。 冷風が、頬を撫でた。
思い出せば、男は酒気を帯びていたろうか。腫れた頬に触れながら、ぼんやりと彼は考える。堪えぬ罵詈雑言に暴力、幾許かの昔を連想して、きゅっと口角を引き結ぶ。街灯が地に影を落とし、一人ここに残る影が強調された。影が腕を下ろして、とた…とた…と足を踏む。靴音が物寂しい夜にこだまして、何事も無かったかのように吸い込まれた。しんと静まり返れば再びも冷風。ゆらゆらと尾のように伸びた髪が揺らされて、漸くバンリなる男はその場から踵を返すのである。
↓
【無意味に苛立ちを与える程度の能力】 ――これは、そう称された。
勿体ぶってつける名前も、格好つけた名前も存在しない。それは、そういうものだ。生まれながらに持っていたのか、それとも人生の中途から存在したものか、そんな事すら曖昧なほどにちっぽけな能力。少なくとも、これはバンリと云う男の隣人だった。怨むことも嘆くこともない、ただ輪郭の曖昧な隣人。そういった程度の認識を持ち、付き合っている。
旧約聖書《レビ記》19章18節――【あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない】……
何処ぞの宗教がこれを謳っているが、全くその通りだ。ただ、異なるのは。バンリにとっての隣人なるそれは、一種の神に等しいこと。己が力に陶酔するのではなく、己ではない隣人を、近しい神と信奉すること。――妄想の産物。名状し難い、と人々は言うだろう。本来の神を崇める身なれば、冒涜的だ、と言うだろう。それでも、唯々、神はそこにいる。神は、そこにいます。淡々と。都合のよい解釈、都合のよい世界。バンリの観ているものは、釦をひとつ掛け違えている。
――【神】なるこれを、みなが【異能】と呼ぶことは。 この街(イバラシティ)に来てから、知った事だった。
而して、神は自身を罰する。罰されることによって実在を示される、自身も。神も。罰されなければこそ、自分はそこに居ない。母は罰した。罰さない母は、居ないものとして自身を扱った。幼少期のそんな些細な経験が、ささやかな自己の在り方と価値観を決めたのは、遠い昔。自己の実在を手っ取り早く証明する神の存在は、バンリにとって僥倖と言う他ない。神が価値観を創ったのか、価値観が神を造ったのか。確かなのは、彼という自己はこの価値観と過去に満足している事ぐらいだろう。
↓
それは、加速度的だった。イバラシティに越して来てから、神に罰と実在を求めるのは。
是に依って与えられる苛立ちとは、バンリに対するもの。指向性としては無差別な物だが、強いて言うならばバンリへと向けられる。強烈な苛立ちは暴行、場合によっては殺傷沙汰を起こすほどであって、バンリはそれ(罰)を受けて己の実在を示す。――だけならまだしも、その暴行を受ける現場を目撃し、何も知らない第三者に暴行を加えた側が糾弾され、時に連行される様をほくそ笑むのが好きだった。幸災楽禍とは、異なる物だろうが――今宵起きたそれも、当然その嗜好によって引き起こされた傍迷惑な事件。――男は何もしていない、と言った。だが、手を上げた方が最初に罪人と為る。
これは、あくまで苛立ちを与えるもの。 暴行を強制する物ではなく、事実として衝動に負けた側が悪いのだ――。
自身に暴行を加えた者の経歴に傷が付き、その信用が密やかに失墜する様を、観ている。己の実在と嗜好を満たす行為。
■■■――バンリとは、傍迷惑な通り魔。一種の当たり屋。異能を持たぬ者の皮を被り、無差別に人を貶める人間。バレなければイカサマにも犯罪にもならない、バレた所で明確な法で裁く事も難しい。人は、彼を何と呼ぶのだろうか。ひたすら、自己の価値観と感性を満たす為に他者を利用し、呵責を持たないこの男のことを。
――しかし、そういったやり方だけあって、バンリの身は常に生傷を纏う。褐色の肌に遺る傷痕は、夥しい物だ。
↓
…蝶番が軋んでいる。借家は、お世辞にも手入れされているとは言えない。出来る限り、手続きに面倒がなく、低家賃を。そう思って選んだ結果であるから、受け入れるしかないのだが。ぎぃぎぃと鳴く蝶番を横目に、扉も閉め切らないままバンリは横たわっていた。何日も干していないベッドに背を預け、鼻を突くアルコールの臭気に瞼を下ろしている。低い机の上に積まれた本は、何一つ手を付けられていない。――男による暴行が今更響いて来たのか、身を起こすのが億劫で、胸中にある満足感だけが頼りだ。イバラシティに越して来てから、元より絶えない生傷が更に増えた気がしてならない。この街では、ただの暴力ならず――異能による、が在るからだろうか。自制の利かなさを、自覚していた。
寝返り。一際強く殴られた脇腹が痛む。痛みにひくつく肩は、側から見ればさぞかし滑稽だろうに。足先でシーツを乱し、遊んでいる場合ではない――と想起する。本題、イバラシティには目的を持って訪れた。とは言うが、あくまで知的好奇心の範囲を出ないような――それでも、バンリなる者にとってはそれが、今を往く命題。薄暗い室内でぼやりと灯るノートパソコンのモニターに目を遣りながら、枕元のスポーツドリンクを手に取る。蓋を緩めつつ、思い返す。いい加減、街に訪れてから遊びが過ぎた。期限など無くとも、出来るだけ知り、解さねば心の蟠りも気持ち悪さも、一生解消出来ないだろう。蓋をそのままゴミ箱へ、寝転がる姿勢はそのままに喉を潤した。熱い喉が、冷えてゆく。
――今でも、母は壊れたままだった。 ならばなぜ、母は壊れてしまったのか。 記憶の母はずっと、壊れている……。
物心付いた時から、バンリは考え続けた。結果として、最後に行き付いたのは父なる存在。顔も知らない、父親の。
父の痕跡は、殆ど実家に残されていなかった。捜していない場所もあるから、一概に言えないにしても。母に、父について聞けばヒステリックに笑い続けるのみ。かと思えば懺悔するよう恐れ、涙を溢すなど。碌な反応が無い。――だからこそ、父に当たりを付けたとも言える。母の、支離滅裂な言葉から唯一汲み取ったのは、父が母に決定的な何かをした――と言うことのみ。それで、もしも父に出逢ったとて問い詰めるでもない。どうして、母がここまで壊れ果てるほどの何かをしたのか。それだけが知りたい。なぜなに、子供めいた好奇心。理由(ワケ)が知りたい。単純明快なクエスチョン。
だが、父の手がかりを殆ど持ち得ていない。唯一、父がイバラシティに訪れていたかもしれないと、漠然とした情報。
不思議なことに、母以外誰も父の存在を知らないと言う。母の親族、ないし知り合いでさえ、誰一人。誰も、誰も…。
ばたり。立て付けの悪い扉が、一際高く蝶番を擦らせて締まる。回想は、そこで中断された。これは、現在進行形の物語。真実を求める――なんて高尚な上っ面を掲げて、その実己を満たす為だけに。父をどうこうしようとは思わない、出逢って言葉を交わし、淡々と事実のみを汲み取る。その遺志は、今も昔も。間々、こうして遊びを交えながら。問題は、Xの数式に何を代入するか、何を掴むか。少なくとも、今の身ではX(未知)ではなくゼロ。そこには、何もない。…想えば、何時の間にかすっかりペットボトルを空にしてしまっていた。それほど渇いていた、というのも愉快な話だ。自らに呆れ返って、バンリは聊か抜けた顔で髪を掻く。ならば、用済みの空は蓋と同様にゴミ箱へ放り込むだけ――だった。のに、面倒くさがってそうした結果、ゴミ箱の縁に弾かれて空が無様に転がる光景が展開されていたのだが――……。
身を起こすか起こさまいか、逡巡する間に背中に敷いたスマホの震動を感じ取り、すっかりその事を忘れていたせいで何事かと急に身を捩っては脇腹と背を痛める。地味極まる因果応報に痛む場所を震わせながら、徐に取り出したそれの電源を入れて確認する――と、何でもないこと、IBALINEの通知。目の端を擦りながら通知を開けば、「サークルメンバー」達の連絡。ああ、と気付くと同時に返すのは翌日で良いか……と枕元にスマホを放り出してしまう。こちらは、趣味。或いは気紛れの。顔の知らない繋がり、というのはまた気楽な物だから。すると、いよいよ以て眠気が襲い掛かる。帰宅前から、大概な時間。ともなれば、現在時刻は日付を越えていると想像に難くない。ひとまず、惰眠を貪ろう。明日のことも、これからのことも、起きたあとに考えれば良い……。
ヴ、と震えるスマホに目も呉れず。バンリはそのまま眠りに落ちた。眠りは浅いが、眠りに着くのは早い質(タチ)で。
↓
「産まれなければよかった。でも、堕ろせなかったのよ。」
「あのひとさえ、いなくならなければ。すぐに堕ろせたはずなのに。」
「わたしはこんなにも■■したのに、どうしてあなただけ堕ろされなかったの。」
母は、今も喚き続けている。 母は、誰もいない壁に向かって平手を打ち付ける。 母は、現実が見えていない。
現在進行形の物語。物語るものは壊れ続けている。それでも、物語は続くのだ。そこに、新たに物語る物が居るから。
これは、父を求める話。騒乱と侵略の街の片隅で認知されぬ話。バンリなる男は、そこにある神と共に求め続けてゆく。
ヴ、とスマホが震え続けている――…… 差出人不明の空メール。一通、悪戯めくそれを受け取って、震え続けている。