月の下に、そっと綻びはじめた律べ。

　月明かりの下、二つは揃い互いに謡い合って、囀り合って。

　耳を傾けてふっと、俄かに小さく、微笑んだ。

　吟歌に耳を澄ませる内、紫水晶の双眸をうっとりと細めた。

　其れが“泣”いたのか“鳴”いたのか、“啼”いたのかは知れぬけども。


『あやかしと成り果てた子は、それを理解できないやもど知れない。けれど』


　其れは、此の《私》が、《リリス》ですら、持っているもの。

　耳に寄せた横顔をゆっくりと引きながら、片手に浚う花の指。掴んで其の指先を頬に宛がう。

　途切れて呟くは偽者の唇より。纏いつくその聲に身を震わせた。蛇のようにがんじがらめにしてくる声に震え上がった。それでも語り掛けるのは優しい音。

　謡い手はゆっくりと語って、私へ問う。答えを謡いかけて、今度は此方の囀りを待っていて。音で舐って、耳を舐って。

　ゆっくり手があげられて、濡れた指先が頬へ触れた。


『憤怒。悲哀。憎悪。嫉妬―――ヒトが名づけた名前を挙げればキリがない。ヒトは其れを、悪いモノの様に区別すらするけども』


　ふるる。静かに首を振って、


『そんな心の全てを押し切ってでも震える魂の音色の、何が恐ろしいの』


　尊く愛しいものを見つめるように笑った。


「そんな、事。この痛みと憂いが毒で無いのなら、其れを語るのは」


　美しいと語る《私》へ紫の眼を向けて、揺らいだ二つの瞳。唇は震える。

　此れの答えをヒトの感情として、自分が持つべき感情であるとして、好いのだろうか。

　毒とも取れる背の暖かさにやっと気が付いたように、認める様に。私は恋心に気付いた生娘めいた問いかけをする

『……大丈夫』

　そんななどと。否定したがった声を遮る、無粋な声。

　自分勝手に歌って、自分勝手に押し付けて。

　――そんなところも、《リリス》と私はよく似ていた。


『御前は《純潔》の花言葉を失った仔。代わりに、沢山の“心”と云う不純物を孕んだ仔。御前がたった今自覚した心は、喜びも怒りも哀しみも、凡て融けた海に産まれる心』


　霧雨よりも優しく甘く。小さな唇からほとりと零れた、言の葉。


『そんなに綺麗なものを、貝の様に閉じ込めてしまってどうするの。もっと誇っても良いのに。御前の心は水晶の様に綺麗なのに」


　月の様にまっしろで、うっすら虹の色すら孕んだ―――宝石を。


『ヒトがそう呼ぶ心には、様々な形がある。御前の其の心は、御前だけの心』


　歌う横顔はふらりと近づいて


『だから、……大丈夫。御前はそれを理解した。だからもう大丈夫。御前は《私》の言うことを理解している』


　おまじないのような言葉を、囁く唇を。私の唇に。

　もう一度、『大丈夫』と。ナカでひらめく舌だけで歌う。甘露を注がれた熱と共に。


　折角問いかけたのに上手く返す言葉が無い。甘い、甘くて切ない其れを啜り続けたくなる。
　大丈夫と包む声が聞こえれば唇すら重なって。こんな優しいモノが今は贅沢にも思えた。


「……今は、不安です。でも」


　もう一度、ゆっくり重ねた。唇は心地の良い子守唄を求めて、もっと囀って、耳へ歌って、その声聞かせてほしくて。

　この想い消える前に。払われなければ母求、恋し相手を求むかのよう。指を絡めたくて　何度も謡われる子守唄に身を寄せた。


「……目に見えないものだから。だから、不安になるけど、……だからこそ、いとおしい」


　大切にしたくなるの。誰かの心も、自分の心も。


『不安でいいの。不安定で良い。不安になるのは、其れだけ、御前が、大切にしている証だから。大丈夫」


　大丈夫――


　“おまじない”の唇が離れた後も、何度も。何度も吐き出した。

　真夜中に泣きじゃくる子供を慰める親の腕を真似て、繋ぐ事をねだられた指はされるがままに。

　『大丈夫』ばかりを繰り返す歌は、誰に売る事も出来ない、娘だけに捧ぐ、独奏の歌。































　水天一碧。千紫万紅。



　夜空は絵の具で塗りたくった黒と青のグラデーション。白い絵の具は点々として見えた。
ときおりミルクの水滴をこぼしたかのような星の影がちらり、ちらりと瞬いていた。頼りげない月の浮かぶ夜。しかしは街は明かりに溢れていて、何処もかしもが地より光を溢れさせていた。
　今宵も月明みちみちて。苔に抱かれた朽木に腰掛けて、歌うよう口ずさむ、この地に伝わる草花を育てる歌。
　夜空を映した広大な池の上にぽつぽつと散らばる、睡蓮の花の色が小さく揺れる。夜天を映して水がゆれる。その波間に浮かんだ花がゆれる。花びらの奥より立ち昇った香りが、風にたなびく形でゆれる――静寂の庭。
　すっかり閉じてしまった花の隙間から零れる清楚な香りは、何処からともなく流れる風に運ばれた。
　偽りの海を経て、偽りの夜を過ごす。
　幾多数多の花が咲き誇る、月が浮かぶ、星が震える。空には蝶が舞い、水には魚が游ぐ。
　一揆が終息し、安堵と喜びを零す人々。そんな場所から離れた森の奥。２か月の時を経て箱庭を作り上げた偽は、騒がしい街並みを眺めていた。
　しかし興味はすぐに薄れて、ふいと背を向ける。




　―――サク、と背の低い草を踏みしめる。天に捧ぐ舞いを踏む踊り子の様に、氷色の草を踏み締めて軽やかに駆ける。駆ける。
　植物たちが喜びの声をあげていた。世界は救われたのだと高らかに謳っていた。

「……エッセ」

　夢のかけらに声をかける。ふいとその場にあらわるる、白い夢。周囲の色を受けて青々と輝いて見えた。

「……もう行くの？」
「またすぐ戻りますよ。いろいろな約束がありますから」

　この一揆を経て、己は十全とした日々を送った。人々と触れ合い、人々に頼られ――そうして離れていったものもあったのだけど。それでもなお心が満ち足りていた。
　たおやかな体はすぐに壊れるものかと思ったが、存外しぶといらしい。

「……私は幸せでした」

　きっと、間違いなく。エッセの腕を欲しがって手を伸ばす。対する片割れはふわりと笑んではその手を取らされた。
　偽の手はとても冷たかった。小さく動かせば、瞼越しの眸の輪郭をなぞってみたりするささやかな戯れ。
　ほんのりと瞳に伝わる冷ややかさで、眠くなりがちだった頭も、微睡も覚める。
　頭に括られた花が――夢の子が作り出した花が結晶の花が揺れる。もたげた頭にりんと、音を立てる。

「幸せ、だった？　偽は楽しかった？」
「とても　とても」

　なおも眠たげな、偽の声。ふわふわと揺れる泡のように、すぐに壊れてしまいそうな声は、色も仄かで、柔くて。

「……なら」

　細い肩の方に、身を傾けた。片割れは顎を、そこへと乗せる。

「夢は終わり？」

　互いはエンブリオと主という契約をもっている。この世界から一時的にでもいなくなるなら、それは一度不成立となってしまう。
　世界はそう決めている。少なくとも偽の契約はそんな風に成り立っていた。
　自分の声に、衣に、半身に、ネクターが反応して契約した、己のすべて。例外なんて幾らでもあったのだけど、己自身もネクターに感化されているということは、結びつきもまた強く、それでも一度離れてしまうと簡単にほどけてしまう。
　――エッセは。

「まだ……甘えていたい」

　甘言に溺れて、他者を愛する蛇が――人を愛したがる主は誘い込む。あまやかな色に変わる片割れの髪をすぃっと撫で上げる。

「……目覚められなくなるよ？　寝坊したらどうする？」
　
　惑う言の葉をほとりと呟いて、頷いて、首を傾げた。

「エッセが起こして？」
「ラウちゃんにのしかかってもらう？」
「余計眠くなる」

　ふふ。小さく笑いをささめかせた。
　頭傾く片割れの体は確かにそこにある。夢だからといってつかめぬものではなく、色に染まるからといって鏡の向こうにあるわけでもなく確りとぶつかる。触れられる。

「――そ、の」

　指を絡めた髪を解いて、口を擦り寄せてうゆりと懐く。

「……浅ましかったかも、はしたかなかったかも、しれないけども。大切だから、どれも、擁きたかった、の」

　どれも大事なものだった。ここで結ばれた契約も、話したことも、己自身が救われたことも何もかも。

「クズは……だからこそ幸せになれた」

　偽善な博愛者。利己を愛でる。相反する気持ちは乖離する。
　己の可愛さのあまり、他人を救うことができないこともあった。それは未熟。まだまだ、弱い。
だからこそ支えてくれる人が欲しい。傍にいてくれるひとがほしい。
　片割れは両眼を瞬かせた。身じろいで、偽のほうへと顔を向けた。偽は寄りかかるこの時間を大切に、壊さないようにする。

「エッセは浅ましいともはしたないとも思わないよ。擁きたがるココロも、分からなくはないから。赦しを請う必要なんて何処にも無いよ。大丈夫」

　子に言い聞かせる母のような態度。小さな笑いと共に零した声は、それはそれは嬉しそうに、恥ずかしそうに、自分には勿体無いとでも言うように、柔らかに。

「偽はとても不器用だね。ちぐはぐなガラス細工みたいでなんでも映してしまう。エッセととてもよく似ているよ」
「……うん、うん」

　心地好さに浸って瞼を瞑る。頭に触れさせたまま、ゆらゆらと上下に揺らしてみせるのは頷きめく挙動。

「……私はやさしくなんてないよ」

　最後の最後で押し付けた頭の力はやや強め。

「偽が偽を優しくないと歌おうと、エッセが優しいというのは変わらないことだよ。逆の立場なら、偽もそう言うでしょう？」

　強めに擦り寄る動作に、くすぐったがって身を揺らす。

「優しくないと云うなら、私が優しいと云い直すから」
「ほら、ね、あなたは優しい」

　くしゃりと笑って偽は歩き出す。一足先に立った彼女を見上げ、和らいだ眼。遅れて立ち上がれば、差し出す手。

「冷たいね。でも夏場なら丁度良いね」

　道化るようになったのは主の影響か。冷たく冷えたその手をしっかりと握る。

「そう、かな」

　拗ねたように唇を尖らせて、繋いだ手を気持ち強めに握り返して、……こくん。こくり。こく、こく。季節外れのごった返した花の匂いを立たせる様、しつこく頷きながら、足を進める。

「次はどこへいきましょうか」
「……どこへでも。好きに行けばよいのではないかな」

　夜明け朝明け。
　何処へと再び向かって彷徨い赴く。故に、残されたものは何もない。





――――水鏡の上には、花びらの散ったネクターの花が、青の中に輝いていたこと。