視界が開けたその瞬間、どこまでも白い空間が広がっていた。


分かり難い距離感―――どこが壁で、どこが地面なのか。
とりあえず、上半身だけ起こしたそのままの形で、ぺたぺたと地面に手のひらをつける。
…当たり前ではあるが、床があるらしい。…一応。

「参ったわね…」

彼女には、ここがどこであるかはわかっていた。むしろ、想定していたとおりだった。―――『最悪』の範疇ではあるが。

ここは、世界の外。分割世界という概念で言うならば、『存在しない世界』と言ったところだろうか。
世界と世界の間に生まれる、隙間、それがこの世界の外だった。
――彼女にとっては、慣れきった世界だった。此処とは違う同じ世界に、居城を構えていたこともあったのだから。

「世界を捻じ曲げすぎた反動ね…空間の外じゃない…時間軸から外れてしまったか…」

ぶつぶつと何事かを呟きながら、そろりと立ち上がる。
天井がとても低い可能性だってあるのだ。頭は打ちたくない。

真っ直ぐに立ち上がると、右腕をふいと上げた。
……上げるだけだった。
何も起こらない。いつもなら、このタイミングで彼女の持つ大鎌が現れる筈なのだが――
面倒そうに、口を開く。

「ʦaɪ̯t――、駄目ね…。」

エンブリオの力無しでは、元の世界以外ではまともに魔法を扱えない。
それが時間や空間を操作するとあっては、尚更。
さらに言ってしまうなら、先程の魔法でほとんど魔力を使い果たしてしまった。
彼女がここから戻る術は――――





「……あのう」

背後から、不意に声を掛けられた。
まさかこんな場所に私以外に人が居るわけない。…居たらおかしいのだ。
幻聴だろうと思い、さらに策を巡らす。エンブリオと『契約』で繋がった感覚も見当たらない。どうするべきか――――

「あ、…あ、あの」

二度目。
…さすがに、これは幻聴ではない。幻聴の類なら二度は起こらない。起こるとしたらそれはもう、自分の頭がおかしくなった時だけだ。
それに、さっき感じた気配――――


ゆっくりと、恐る恐る振り返る。
まさか、まさか―――


…そこには、自分と同じ桃色の髪を、短髪にしている女性が――若干怯えた雰囲気でこちらを見ていた。ゆらり、首元から伸びているペンダントには、透いた土色の小さなスモーキークォーツが嵌め込まれている。
顔も、自分と瓜二つ。まるで「ドッペルゲンガー」かと言いたくなるような顔立ちに、一瞬言葉を失った。

「―――アンタ、」

いいや、彼女が面食らったのはそこではない。も同じ顔をした人間なんて、次元を越えてしまえばいくらでもいる。そんなことに、彼女は今更驚いたりはしない。
メィレーは、これが誰なのかを知っていた。知っていたからこそ、彼女は驚きを隠せなかったのだ。


「…タイム、」

彼女こそ、メィレーがメルンテーゼに飛ばされる前――「殺そうとしていた」人物だった。


「……ハハ、『鏡面世界』、か。すべてを真反対に映すものであれば、こうなって当然か――」
嘲笑のような表情を浮かべながら、ぽつ、ぽつと、地面に落とすように呟く。視線も、同じく。
何も知らない純粋無垢そのものの瞳が、彼女にとって眩しくて――見ていられなかったから。



メィレーと、タイムというその彼女は、元はといえば同じ存在だった。
『パラレルワールド』『並行世界』『並行時空』という名前で言い表すことのできる在り方。その中でも、彼女達の在り方は、同じ場所から出発して―――真反対のゴールに辿り着いたものだった。

『可能性の中から一番幸せな選択をした』タイムと、
『可能性の中から一番不幸な選択をした』メィレー。

鏡は真実と同様に、真反対をも示す。それが、彼女の境遇ですらを映しだしてしまっただけに過ぎなかった。



「…悪いわね、アンタまで巻き込んで。こんなところまで連れてきちゃって」
「いえ、あの…ここは何処なんですか？夢なんですか…？あと…だ、誰ですか？」
「ちょっとは落ち着いてよ、ここいやに声が反響して気持ち悪いのよ。私は…メィレーよ。」
「ももも、もしかしてドッペルゲンガーですか！？そしたら、私―――し、死ぬんですか！？」
聞いておいた割にメィレーの言葉を受け取るわけでもなく、矢継ぎ早に声を裏返しながら慌てふためく。そんな様子を見て、メィレーはただ溜息をつくばかりだった。
「ど、どうして同じ顔なんですか…？はっ、もしかして生き別れのお姉さん…」
「違うわよ」
鋭くツッコミを入れる。……姉どころかそれ以上に親しい人間なのだが。

―――タイムは何も知らない。
自分が、魔法を使えること、世界にとって重要な存在だったこと、そして―――「自らが人間ではないこと」。それを忘れさせられたまま、人間と恋に落ち結婚してしまったこと。
生まれながらの魔法使いは、人間ではない。魔法使いの子は、魔法使いの子。人間と子を成したとて、その子は本能的に魔法を使役するだろう。
その時、彼女は思い出す。自分が、人間ではないことを――――並の人間では拒否してしまう程の、世界を壊し得る程の、強大な力を持つことを。

だから、彼女の手を借りることは不可能なのだ。今ここで魔法使いとしての加古を思い出させたとて、メィレーにとって利益は無い。メィレーが望むのは、「不幸の底」を味あわせる事なのだから。

「あ、あのう…私どうしたら…」
後ずさりながら、困った声をあげる。その挙動に、早くもメィレーは苛立ち始めていた。
「いいからあんたは座ってなさいよ、あたしがなんとかするから！―――ったくもう、なんだってこんな性格にしやがったのよ…」
ぶつくさと悪態をつきながらも、頭の中では『なんとかする方法』を必死で探す。視界の端で、タイムが首から下げたペンダントがゆらりと揺れた。

―――その中で、きらりと。何かが煌めいた気がした。
―――懐かしく、馴染むような光に思えた。

「…ねえ、アンタ」
「ひゃっ、は、はい」
一歩近付くメィレーに、過剰な反応を見せる。ぎゅうと両手を握り締めて、固くなったまま近付いてくるその姿を見る。…やがてその視線の先が、胸元のペンダントだと気付くと、自らもそちらに目を向ける。
「これが――ど、どうか、しましたか？」
「それ、良ければ貸してくれない？よく見せて欲しいのよ」

眼を丸くして、ペンダントを握りしめる。
――同じ顔をしたその表情が、どこか本気に見えた。これが無いと、まるで困るような、縋るような。
彼女が出す、答えは。

「……、い、いいですけど……」

折れ、であった。



魔法を使えなくなったとて、魔力は無くなるわけではない。裏を返せば、ふとした瞬間に言葉が詠唱になって、暴発する可能性があるということだ。今でこそ彼女は、結婚相手の住まう世界―――魔法という概念の無い世界に住んでいる為にそれは防がれているが、嫁入りするまではそれを封じ込める何かがあったはずだ。
魔力の回復を封じ込めるアイテム。もしくは、魔力そのものを貯蔵するアイテム。周囲魔力を扱うには取り込もうと言う意識が必要な為、睡眠で回復する魔力さえ全て吸い取ってしまえるなら魔法は使えない。

ペンダントのチェーンを持ち上げる。スモーキークォーツと目線が合うようにぶら下げて、にらめっこ。中を見通すように、睨む。

「丁重に、かつ厳重に封印が敷かれてるわね…当然か。でも手順を踏めば難しくはない…ほどく順番さえ間違えなければ、っと」

メィレーは後者の可能性に賭けた。
賭けざるを得なかった。―――それしか、もう方法は無いからだ！

「――私の魔力にしか反応しないように施されてある…？妙ね…まあ楽でいいんだけれど」

パキン、パキンという音を立てて封印が解除されていく。また一つ、また一つ。
その様子を持ち主である彼女は不思議そうに眺めていた。――何が起こっているのかわからない、という表情で。

「これが最後の一つ…、えい、っと」

――――バキン。
一際大きな音を立てて、何かが壊れる音が空間に鳴り響く。
…静寂。それは、彼女の目論見が外れたことを示していた。苦労は、ただ徒労に終わるに留まったのだ。空とも言えない頭上を見上げる。
…終わった。これ以上の手は此処にはない。悲嘆に暮れ―――――かけた。

次の瞬間だった。

突如、閃光が走った。迸る衝撃波、荒れ狂う暴風がメィレーの薄手のコートと長い髪を巻き上げる。あまりの勢いに、両腕で顔に吹き付ける風を防ぐ。眼をあけていられない。それでもなんとか腕の隙間から、目の前の景色を盗み見た。



――スモーキークォーツが、光っていた。
風と溜め込まれた数年分以上の魔力を撒き散らしながら、輝き回転するペンダント。その光景はメィレーに確信をもたらした。
『勝った』。彼女は賭けに勝利したのだ！

向かい風を防ぐのもやめ、彼女は高々と右手を上げる。強風に煽られてはためくコートも、今の彼女には気にならない。ただ、懐かしさと安堵だけが彼女の中にあった。
魔力に包まれていた世界。何処を見たって、自分の武器がそこにある。それを如何に捏ねて具現してやるか――――そんな、世界。

「最ッ高よ！！」

満面の笑顔で絶叫すると同時に、白い世界にメィレーを中心として大きな大きな魔法陣が展開される。
詠唱も、エンブリオも、魔道具も、補助も何も要らない。ただ、頭の中で思い描き命令し、一所作振るうだけでいい。これが『大魔王』『最高最悪の魔女』『時間の支配者』と謳われた、彼女の全力の魔法だった。

次々に起こる非日常の景色に、タイムの頭は追いつかないでいた。ただ床にへたり込んで手を付き、同じく人間の形をした、同じ顔の誰かを見つめることしかできなかった。それも、困惑と不安を詰め込んだような表情で。
声も出せない。ただ、恐怖で動けない。大きな魔法陣のようなものの中に、取り込まれてしまっている。自分は、どうなるのか――――

その様子を見たメィレーは、ニヤリと笑った。――楽しくて仕方がなかったからだ！自分に欠けたピースを取り戻せたような、充足感。だけど今は、もっと大事なことがあった。


「大丈夫よ、心配しないで！アンタはちゃんと『愛しのシュランさん』のところに、帰してあげるから！！」
何処か憎たらしそうに――だが、嬉しそうに叫ぶ。それが嫉妬であることはもう彼女には分かりきっていた。自分が掴めなかった幸せを、途中まで同じ運命を辿ってきたタイムが掴んでいる。それが、許せなかった。

だけど、それももう、どうでも良くなってしまった。
きっと運命は変えられる。力が無くったって、この世界は変えられる。
ましてや私はこんなにすごい力を持っているんだ！―――変えられない訳がない！！

「私、魔法で世界を変えるわ！変えてみせる！！」

回る大魔法陣の中、彼女は両手を広げて高らかに宣言する。
二人しか居ない空間、徐々に光に包まれる白い世界。

そうだ。私がやるべきこと。人ならざる力を持つからこそ、やらなければいけないこと。

「―――だって私、『魔法使い』だもの！！」

幸せな世界を、創り上げてみせる。

胸元に、スモーキークォーツの嵌めこまれたペンダントが揺れている。