怒りと混乱のまま、発した声は思いがけないほどの早さと強さで宴席を駆け抜けた。
頭に上った血は、場の空気と同じ速さで…否、それよりも早く冷えてゆく。
長老に、目上の者に、男の人に逆らってしまった。
村を束ねる立場の人に、たてついてしまった。
生まれて初めて触れた禁忌に、反射的に背筋が冷える。
長老たちの考えは、誰になんと説得されたって譲れるものじゃない。
けれど、反射的に覚えてしまう罪悪感と恐怖に、あえぐばかりで言葉が出ない。

その背に触れた手の、なんと暖かかったことか。
とん、とん、とん、と撫でられるたび、耳になじんだ彼の言葉が傍で紡がれていくたび、
心にその手のぬくもりが通っていくようだった。

いつもの彼の、どこか軽やかな口ぶりが、己の村に伝わる物語を紡いでいく。
うろ覚えで、あやふやで、合っているのかよくわからない、たどたどしく語ったその物語を、
彼がこうもあざやかに覚え、語ってくれていることに驚いた。

「――他所に行くつもりなら、いっそ泥の中の世界に戻ってみんのはどうよ？　逆に新鮮じゃねェの」

そしてもう一度、今度は彼の言葉に驚く。
ぴり、と肌に感じるその響きで悟る。彼も怒っているのだと。

「……っ、この、若造が……ッ！」
「よう言うたの」

ペタルを遮る長老のしわがれ声は平坦で、静かだった。

「坊よ、お前がそれを言うとはの。
物語っちゅうもんを知らんのかの？　あれは全部本当にあったことじゃと思ちょるんけ？
そうじゃと思うとるんなら――坊の基準じゃあ、わしらの言い伝えも嘘となろうの。
――事実にゃ、子供に聞かせとうないもんもある。静かに忘れていきたいもんもある。
そこを隠して、物語として紗を掛けるんは、はて、嘘になるんかいのう？」

くつ、と低く笑う。細い目を皺に埋もれさせるその表情は、
いつもの好々爺のそれであるはずなのに、目が、目が、笑っていない。

「ああ、お前さんは物語の中で生まれたんじゃったの。――のう、ジャバウォックのエンバーよ」
「おじい……さま……？」

まるで最初から知っていたかのように。
長老は、この世にひとりきりの種である彼の正体を言い当てた。
驚愕する少女を、ふ、と長老は笑い飛ばす。

「皆、酒が過ぎたかの。………ペタル」

呼ばわる声に、我に返ったようにペタルが立ち上がり、宴の解散を告げる。人払いだ。
こちらを案じるように、もしくは長老に逆らう己たちに呆れたように。
さまざまな視線を寄越しつつ、村人たちは三々五々に散っていった。
両親は、傍に来ようとしていたがペタルに制され、こちらを案じるような目だけを残して辞していった。
最後に集会所を出たペタルの、扉を閉める音が、今ここにいるのが三人だけであることを示す。

「そんなに驚かんでええぞな、ヤドランカ。
――わしは、泥の世界で昔、この坊に会うたことがあるんじゃよ。
ちゅうても、遠目で見たきりじゃ。坊はわしを知らんじゃろうがの」

懐かしげな口ぶりは、けれどすぐ、こみ上げてきた苦いものを押さえつけるように消えた。
さて、と老人はこちらへと視線を向ける。

「ヤドランカ。お前は雛の頃から本ばかり読んどったの。
ならばわかるじゃろ。物語ちゅうのは、真実しか書いておらんのかな？」
「……いいえ〜」

首を横に振る。物語は、物語だ。本当にあったこと、本当はなかったこと、
本当にあったことの欠片を紛れ込ませたもの、いろいろだ。
本当のことだって、比喩や言葉遊びや書き手の視点、いろいろな要素でくるくる変わる。
今だって、今だって。
彼が、懐かしそうに、宝物のように、口中の飴玉のようにいつくしんで語った夜闇の世界。
その、物語のように美しい世界を長老は泥と呼び、そこで彼と会ったことがあると言う。
風もない、空気もない、水もない、そんなひどい世界だったと言う。
同じものには思えなかった。

「……あそこでも、坊は旅行者じゃったから、どこまで知っておったかわからんが。
エストレージャはわしらにとっちゃ泥の世界じゃった。
のう、ヤドランカ。お前は不思議に思ったことはないかえ？
あひるちゅうのは自然にできた種じゃないが。羽根なしが毛をむしり、
肉を食うため飛べんようにと作った鳥じゃが、そんなもんと繋がっとるわしらは、
自然に生まれた種族と思えるか？」

あの世界でわしらは家畜じゃった、と、長老は言った。

「どこからか連れてこられたんか、あそこで作られたんかはわしも知らん。
じゃが、物心ついたときにはペタルの親父は見世物として獣と戦わされておったよ。
わしも、背が伸びだした頃から引き出されるようになった」

長老が襟をくつろげる。肩口に覗く引き攣れた傷跡には見覚えがある。
若い頃ワニと戦って倒した傷だと、酔うたびに聞かされた。
だが、そういえば、"どこの川で"戦ったのかは、聞いたことがない。

「腕が立ってちいと見栄えのいい奴は、門番として買い上げられて、
金持ちの城の奥の堀なんぞを守らされておったな。
この身体じゃあ、飛べもできんし走るにもヨタつくからのう。
女は……さて、どうじゃったんかいのう。
子を作るとき以外は会わせちゃもらえんかったから、
どういう暮らしをしとったか実は未だにようわからん」

長老はがりがりと頭をかく。
禿頭にしては随分強いその力加減には、未だ忘れられない怒りが見えるかのようだ。

「――暗闇で、生き死にさえもままならん、そういう暮らしじゃ。
自由がないんは、風も空気も緑も無いんと同じじゃないかえ？」

その言葉に、胸を突かれた。
今までただの御伽噺と思っていた伝承が、にわかに現実味をもって目の前に立ちふさがった気分だった。

「……かくいうわしも、闘技場で目を付けられてな。
この傷ができるまでは門番として飼われておった。
怪我しちまった後は、肉を食うにも硬いし羽根も荒れて使い物にならんと持て余されちまったがの。
ほんで闘技場に戻されそうになったところを脱走して、知り合うたんがカッサンドラよ。
のう、坊。カッサンドラはええ女じゃったのう？」

にやりと長老は、彼を見た。

「他にも世界があるいうんを教えてくれたんが、カッサンドラじゃった。
お前さんのように、自分の世界を出てあちこち渡る奴がおるいうんも聞かせてもろた。
ほいで、わしもそれを真似させてもろうたんよ。
ちゅうても、なかなかそんな都合のええ世界はのうて、みんなを迎えに行くまでちいと苦労したがのう。
じゃが、今のこの村の平和は、間違いなくわしや
一緒に来てくれたペタルの親父たちが築いたもんじゃという自負はあるよ。
……じゃがそれをお前さん、ありのままに言えるか？
子孫たちに伝えていけるか？
わしらは家畜じゃった、奴隷じゃったと、そこらを転がりまわって遊んどる子らに言えるか？」

長老の目が鋭くなる。

「この村を築いたんはわしじゃ。じゃから、守るためなら何でもするぞ。
世界は渡れる。いくつ渡ろうが、平和に暮らせる場所を探すためならかまわんわい。
皆が揃っておりゃ、そこがわしらの村じゃ。……わかるじゃろ、ヤドランカ？」
「……っ、」

頷きそうになって、でも、踏みとどまる。
長老の言いたいことはわかる。気持ちもわかる。けれど、頷けない。
長老がこの村を……同族を愛するのと同じくらい、自分も、この村が好きなのだ。
この村の景色が、川を渡るエンブリオたちが、村で笑いあう皆が。
一揆が終わったら、彼と一緒に世界を旅して回るつもりだった。
でもそれは、帰る場所がここにあると思っていたからで。
いつか、ここに帰ってくるつもりだったから、で。
だけど、そのために皆をここに引き留めるのは、自分のわがままに過ぎないのではないだろうか。
でも、でも、でも。

「…………………い、いや…」

おそるおそる、口にする。さっきのような衝動的なものではなく、けれどはっきりと。

「まだ、悪くなったわけじゃないもの……。
今まで出会った一揆の方々も、みんな、自分のいるところが大好きな方ばかりだったもの。
だから、悪くなるって決め付けるのはいや。
それに、わたしたちは逃げられても、今までいっぱい私たちに協力してくれた、この子達を
置いていくのはやっぱりいや」
「ヤドランカ！」

荒らげられる声に、こらえきれない涙がこぼれる。
けれど、怯まない。
ゆっくりと立ち上がる。

「おじいさま、ごめんなさい。わたしも、ここに残ります。
お別れはいやだけど、行かないでって言いたいけど、
でも、おじいさまのお話を聞いたら、わたしには言えないわ〜。
だから、……最初からヤドランカはいなかった、って思ってください。
……………っ、おじ、い、さま」

大好き。さよなら。今までありがとう。
どれも言いたくて、でもどれもどこか違って言いたくなくて。
ぽろぽろ落ちる涙を見せたくなくて、足早にそこを後にする。
集会所を出て、ころころと立ち並ぶ家々を抜けて、何か言いたげに顔を出してくる村人たちを振り切って。
その中には、心配げな両親の姿もあったが、先ほどの長老の話を聞いた後では言葉を交わす余裕もなかった。
逃げるように走って走って、気づけば川面に滑り乗り、向こう岸を目指して水をかいていた。

「……っ、ぅえっ、ぅく……っ、」

水の上、子供のように泣きじゃくる声は、静かな村に小さく小さく水面に響く。
その小さく丸めた震える背に、翼が空を打つ音が届く。
始めて聞く音だけど、それが誰のものかはわかる。
追いかけてきてくれるのを良いことに水をかき続け、対岸へと向かう。落ち着く時間を稼ぐように。
けれど、対岸、岸辺に立ったその時にも、まだ涙は止まっていなかった。
観念したのか開き直ったのか、しゃくりあげながら振り返り、両手を伸ばす。
その優しさに縋るように、泣かせてくれる胸を求めるように。

下腹の羽毛を逆立てたまま、敵を見据えている。

歌うように呟いて、羽根ペンを持った右手を伸べる。
羽根ペンに宿った光のひとつが飛び出して、くるくると回り始めた。

ひとつ、ふたつ、みっつ。
回るたび、辺りの温度が下がっていく。
吐く息が白くなる。ちらちらと、白いものが落ちてくる。
星まで凍らせるような冷たい風が、サッと下から上へと吹き上げた。
目を開けると、いつから立っていたのだろう。
そこには、白い肌、赤い反物を携えた女がいた。