：今回の日記もヤドランカ（1204）さんの日記と繋がっています。
：先にこちら（http://lisge.com/ikki/r/k/k1204.html）をご覧頂けると幸いです。

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「ああ、お前さんは物語の中で生まれたんじゃったの。――のう、ジャバウォックのエンバーよ」


声を荒げるペタルにも表情の変わらなかった男が、不意に告げられた言葉に、瞬きを落とした。
宴は終わりだと散り散り去って行く村人たちは気にならず、ただ、長老にだけ視線が留まる。
傍から見て“そうと解る”姿をしているだろうか。否、それでは人の姿になった意味がなかった。

「……話したっけ？おれがジャバウォックだってこと」

物語は必ずしも本当ではない事は、男とて知っている。
例えば、男が本来居るべき物語を抜け出して、此処で自由に生を謳歌しているように。
いち、に、であっさり首を落とされたジャバウォックがどれだけ苦しい思いをして、
けれどそんな子供向けではない描写が、わざわざ本の中で詳細に語られていないように。

ただ、長老が語って聞かせた話は、彼ら種族の創世物語の一種だと男は捉えていたのだ。
泥にまみれた世界で生まれ、一族の為により良い地を目指して旅を続けたアヒルの物語。
そこに根を張って時は過ぎ、やがて今のトート村の形になった、そんな遥か昔の物語。
誇張もあるだろう。話を盛った部分もあるだろう、でも、“それだけだと”思っていた。

「泥の世界で、昔？…あんたの言う泥の世界っつーのは、分割世界のコトか。
　エストレージャに滞在してたのは間違いねえけど、あそこはそんな悪ィとこじゃ…」

男の記憶の中にある薄星夜の世界は、確かに太陽こそ登りはしないが、
言われるほど悪い世界であった記憶はない。忘れてしまったのかも知れないけれど。
名を考えてくれた人間がいて、酒飲みの気の良い知り合いがいて、美味いごはんがあって。
けれども長老が彼女に語ってみせるその世界は、男の認識とはまるで別のようだった。

エストレージャでアヒルの獣人が作られているという話は、聞いた覚えがない。
けれど、自然に生まれた種族かと問う長老の言葉には、なにも返せない。
見世物に闘技場。彼らが不自由の元で命懸けの戦いを強いられていたことは明白で、
表立って見た覚えがなければ、専ら金持ちたちの娯楽として行われていたのだろう。

長老が語る間に見せる仕草のひとつひとつには怒りが滲み出ていて、
一方的に蹂躙される事への言いようのない思いには、男とて覚えがない訳ではなく。
されど男以上に衝撃を受けているであろう彼女のことを思えば、唇はそっと噤まれた。

それは確かに、泥の世界と言って過言ではないだろう。
思案気に双眸を伏せかけた男の耳へ、不意、聞き覚えのある単語が飛び込んでくる。
脳裏を過っていったのは、齢四十を迎えようとする女性の姿だった。

「……あ？…カッサンドラ？」

長老の口にした名前には覚えがあった。何処か懐かしい響きの、その名前。
酒飲み商人のカッサンドラ。エストレージャで知り合った、男の正体を知るひとり。
男もまた、その人物から幾多もの世界の名を聞いて、足を運んだものだった。
なるほど自分の正体を知るものと知り合いだったのなら、最初の言葉は納得がいく。
反射的に問いを向けようとして――それよりも早く、追って言葉を投げかけられた。

思わず、口を噤む。

子供たちにありのままを伝える。何も覆い隠さないことが、果たして本当に正しいのか。
とてもそんな歴史があったとは感じさせぬこの村は、間違いなく、彼らが作ったものだ。
闘技場で競わされ、怪我を負い、見世物にされ、それでも生きようとした、結果の。

「あんたも、あんたたちも、…そうやって苦労を負ってきたのか。
　その果てに今があるんなら、それについては敬意ってのを払うべきなんだろーな。
　この村を守りたいのは、十分伝わってる。でも、それでも、…」

自分にとって、何を最も失くしたくないものに据えるか。
それは必ずしも、例え志が同じでも、村を想う長老と同じであるはずもない。

ヤドランカ、と。彼女に突きつけられた選択肢を黙って噛みしめる。
男には家族や一族の絆がどういったものか、きっと本質的には解らない。
けれど、それが途方もなく大切なものであることぐらいは、解る。
彼女がこのメルンテーゼやエンブリオ達を、大切に思っている事も、十分に。

戸惑い、答えを悩んでいる彼女の姿を何も言わずに見つめる。
引き金を引いたのは男なのかも知れなかった、けれど、此処で言葉を挟むことは出来ない。
その代わりせめて、留まる事を選ぼうとも離れる事を選ぼうとも、その選択を尊重しようと。
永遠とも思える張りつめた沈黙の中で、そんな事を不意に思った。

どれだけ時間が過ぎたのか、彼女が、小さな声でぽつりぽつりと言葉を落とす。

「―――この子達を置いていくのは、やっぱりいや」

嫌だ。
確かに自らの言葉でそう言った彼女に、男は双眸を伏せて立ち上がった。
この世界とエンブリオという友人と大切な仲間と、それを天秤に掛けながら。
己は居なかったと思って良いとまで彼女に言わせてしまった責任を、男もまた感じながら。
涙を流して去って行くその姿を肩越しに見遣って、小さく息を吐く。

「…一揆にどんな形でも決着がついたら、おれは忘れた約束を探しに行く。
　知り合いに教えてもらった、観光の世界ディーグルートを通ってね。
　まァ、そこもあんたたちからしたら泥まみれなんだろーけどさ」

トート村の人々がこの地を離れたら、彼女に会う術は無くなってしまうのだろうか。
そんな危惧がこの期に及んで過ったから、暗に、行き先を告げたつもりだ。
それ以上は交わせる言葉もないだろうと知れば、背を向け。彼女を追って歩き出す。

不意に一度だけ、立ち止まり。

「泥の世界に戻れって、あんたらの気も知らず安易に言ったのは謝っとく。
　“自由がないのは、風も空気も緑も無いと同じ”…その気持ちはよく解るしなァ」

悪かった、あんたらの肌に合う世界がまた見つかりますように、と。
一方的にそう告げれば、後は声を掛けられても足を進めるばかり。
村人達の視線を振り払いながら、飛び出したたまごの魔女を追い掛けて道を往く。

ただ、ひたすらに。


＊　＊　＊


「あー…」

その男の表情があからさまに気落ちしたのは、川が見えてからだ。
前に此処に来た時は、そう言えば彼女の背に乗せてもらったのだった。
けれども彼女は此処に居ない。迷う暇もない。
となれば、手段はひとつしかなかった。仕方なく爪先で地面を強く蹴りつける。
刹那――背中に顕現するのは、少し歪な悪魔の羽だ。男の身体が、少しずつ宙に浮く。

限りなく地面すれすれの高度を取りながら、川を渡るべく、一歩を踏み出し。
やがて大きな双眸に涙を溜めた彼女を見つければ、小さく笑って、そちらへと寄って行った。

下腹の羽毛を逆立てたまま、敵を見据えている。

歌うように呟いて、羽根ペンを持った右手を伸べる。
羽根ペンに宿った光のひとつが飛び出して、くるくると回り始めた。

ひとつ、ふたつ、みっつ。
回るたび、辺りの温度が下がっていく。
吐く息が白くなる。ちらちらと、白いものが落ちてくる。
星まで凍らせるような冷たい風が、サッと下から上へと吹き上げた。
目を開けると、いつから立っていたのだろう。
そこには、白い肌、赤い反物を携えた女がいた。