どこまでも遠い残響が視界に円を描いて消えていくのを、見た。空には儚い薄紅の花びらが波を描きながら揺蕩う。波。波だった。白波の押し寄せる目映さ、手触りをもたらす絹泡のやわらかな音、金色の光の中で水晶の砂浜に花は舞い、またどこか波は彼女の足を擽りながらすぐにまた爪を撫でる。裸足の。傷ひとつなく、大理石の上ばかりしか歩いたことのないような、完璧な造形と爪の、またくるぶしの影にも。冷たい口づけだけを残して。濃い花とまろやかな光の色に塗り分けられたその爪は、水面越しに揺らめく、一瞬、けれど繰り返し。その度にじゃれるのは、磨き抜かれた水晶の行く末で、さらさらと肌の上を滑り、あるいは指と指の狭間に沈殿する。明度の高いまさしく碧の海は藍の気配さえ感じさせず彼女を何処かへ連れ去ろうと遠い波動を送る。遠い、遠い、（遠い、）その、先の世界へ。水は冷たかった。日射しは暖かかった。風があり、彼女の金の髪と、麻の真っ白なドレスの裾を翻していた。砂浜の結晶の中には濃紅の華奢なサンダルが擲たれていた、さながら断崖に咲く花にも似て。髪をかきあげる彼女の爪は何の色もなく、静謐な趣で彼女の指の延長に収まり、伏せた睫毛は繊細さを刻んだ光をその切っ先に収斂させていた。鳥が遠くまで飛んだ。目を奪われる。その鮮やかさに心が立ちすくむ。高い空の果てには籠があり、高なる心以上にどこへもいけるものではなかった。この海の果ては、この空の果ては。光が満ち溢れているのだろうか、ここと同じように？ 当てはめられた型 figure から遠く離れて？ 彼女には翼があった。望めればどこにだって行けた。けれど、飛んだ果てで行けないどこかがあることを、硝子の天井に打ち付けられて墜落することを望みはしなかった。それは、おおよそ美しい、と彼女には思えなかった。血塗れで墜落する天使は、この世界 macage d'Or のどこにもいない。それを美しいと呼ぶものもいるだろう。けれど、それは彼女の引き受ける彼女の美しさでは、なかった。彼女の守るべき籠の赦すべきものではなく、彼女の存在の依拠すべき空でもなかった。



これは、 ゆ め だ。
（だってわたしは、足を浸した水の冷たさを知らない）



幾度めの目覚めか最早わからなかったが、彼女はまた、この世界で千を遠くに数えるほどの朝を迎えた。ここからはじまるように、いつものように。いつものようだと信じていたかっただけかもしれなくても。それはいつもよりも暗く、またいつもよりもずっと低い気温――その気配の中にあった。彼女は思い出す。その千を数える日の最初の朝を。そしてやがては訪れる己の身体の腐敗し崩れ落ちる音と香り、その痛みを。覚悟と恐怖、恐怖、恐怖。ひっそりと息を止めて己の体をどれほど抱いても、その瞬間は訪れ得ない。何故だ。彼女は頭を振り、そして僅かばかり残された右手の小指を見つめる、淡紅の気配、いつかはそこに止まる死告げの翅の在処。まだ、（保たれている）そのことを、思いだす。零れ落ちる砂のように、時計が歩みを進めるように、記憶が緩慢に戻る。光の出口に戻って。最後に見たのは銃口で、無機質な殺意は常に彼女に寄り添い、護ってきたものとは違うもの
。認識するのは早かった。もうふたりしか立っていない、薬莢の弾かれた絵、それから間髪いれない衝撃。撃ち抜かれたのは肩で、それは彼女の力の多分を占める褥を揺り動かす、エンブリオの力ごと削がれる、自らの中が空っぽになってゆく感覚。きっとそのあとには、血の巡る、熱量、執着、首を絞めるような、血脈に連なる愛とも呼べるその呪縛……。
どこか息苦しい。空は重く、またどこか暗い。ノールの花の香りと湿った土の匂い。振りかぶる髪には厚みを感じる、ぺたりと大地に根差した太股から伝わる冷たさ、反比例して感じるからだの熱、聴覚は澄んでいても視界は重く、緩慢な思考は現実の写実を幾分かゆるりと彼女の中に送りこむ。錆びた味覚、冷たさは肌から、懐かしさと戦闘の入り交じる香り、静かな誰の気配もない静謐、それから血の、その肌を彩る。肌、を。血塗れだった。破れた衣服、胸元に落ちる金の髪、グラデーションを一層強く染め抜いて。
音にならない声が喉を突き破っていく。恐怖は二度戻り、そして彼女の体を突き動かす。（これを美しいと思うものが？） カタカタと戦慄く手を押さえつけては、大地についた掌の形。立ち上がり翻す、その場から立ち去ろうと、慣れ親しんだノールの花の方へ、そうすればきっと父が抱えあげてくれる、あの日のように、あのはじまりの日のように。オルガ、呟く名前は闇に紛れて浮かぶ。
駆けようとする脚は意思通りに動かず、もつれたように転び、彼女のからだはまた大地に沈む。土に埋もれていたらしい何かの種が彼女の頬に赤い線を描いた。もう一度立ち上がろうとして耳に届いた金属の連なる重い音、じゃらり、彼女の体の下から響く重い音、鎖だという認識は随分と遅れて来た。手首と、足首を繋ぐ、細く闇にあって白い。
繋がれている。（繋がれている……）獣のようにも（だって、わたしは鳥ではないから）、ただ彼女の瞳に写る空に、遠いこの大地の境の果てに、慣れ親しんだような界が見えたような気がして、そのまま瞳を伏せた。籠の中へ、美しさを保つことも出来ずに。翼はないのだ、ここから羽ばたくための。自らの脚が奪われ、そしてこの土と血にまみれたこの現実をどれ程否定したとしても。狂ったとしても。（繰り返し、反復する、巡る、繰り返す……）反復を恐れていないと口にすることもあった。けれど、（そうしてまたわたしは恐れていなかったはずの繰り返し記号を手に入れただけだったの）ウイルスが体の中で笑ったように、彼女の体が熱を帯びた。