焚き火にくべた枝が弾ける音だけが、夜闇に響いている。
あの日から、何日も経って。いつもの、夜が訪れていた。
獣の気配も少なく、異常は今のところ、見当たらない。
何もかもが眠りについているような、静けさだった。

コトカさんはあれから取り乱すことも無く、見たところはいつも通りに見える。
涙を見せたのも、あの時だけだ。でも、その代わりに、少し、ぼんやりしていることが多くなったような気がする。
屋敷で逸れる前とはまた違う、何か物思いに耽るような、そんな感じで。
燃やされてしまった故郷を、思っているのかもしれない。

――そんな彼女を、傍で見ていたからだろうか。
襲撃を受けた日の事を、よく思い出すようになった。
でも、あの日の記憶は、いつ思いだしても、ひどく、ぼやけている。
もう、2年と10日前にもなるのだから、当たり前かもしれないけれど。


*****


記憶の中の視界は、歪んでいて――多分、私は泣くのを必死に堪えていたんだと、思う。
ひんやりと、暗くて湿っぽい、地下道の中。

見下ろす形で、私は、自分の腕で支えた『彼』を見ていた。所々切られて破けた自警団の制服。
彼の利き腕だった右腕は、肘の下からなくなっている。
それだけじゃなく、深々と抉られた腹の傷は見て分かるくらいに、出血が酷い。
破いた布で押さえてはいたものの、もう、おまじない程度でしかなかった。
私も、無事ではなくて。身体中が痛みを訴えていた。左肩から背中にかけての痛みが一番酷い。
息が苦しくて、水の中にいるような気さえして。
物音がした。そっちへ視界が向く、そして。

人の姿をしたイェジが、そこにいた。

そこから、記憶は飛ぶ。

次に見えたのは、『彼』の左手に握られた紅い花。奪われたはずのネクターを、一輪だけ取り返していた。
それを、私と同じように座ったイェジが見て、いいのか、と掠れた声で呟いた。
今思えばイェジも、生命力を失って憔悴していたんだろう。
歪んだ視界でも、『彼』が笑っているのは分かった。
『彼』が、口を動かす。けれど。





聞こえない。なにも、聞こえない。
何度思い返したって、聞こえない。
いや、聞いていたはずなのに、思い出せない。
続いた願いは、何度だって思い出せるのに。





その言葉が、いつだって最後だ。
思い出せない言葉は、いったい何だったのだろう。『彼』は、私に、何を伝えたかったのだろう。

――何度も繰り返した疑問は、





「――、っ！」


痛みを発したのは、左肩の傷。思わず身を屈めて、患部を押さえる。
今までも時々あることだったけれど、気のせいか、いつもよりも痛みが強い気がして、歯を食いしばった。
思い切り傷に爪かなにかを突き立てられて、抉られるような、そんな痛み。


「……く、……」


意識して深呼吸をしながら、患部を摩る。
ゆっくりと繰り返すと、少しずつ痛みが紛れて、薄れていく。
そうして暫く、静かにしていれば、やがて痛みは治まった。


「……冷えたかな」


動ける程度に重ね着はしているし、今は焚き火に当たっているから、それほど寒くは感じてはいなかった。
でも、思ったよりも冷えていたのかもしれない。
きちんと防寒対策しないとな。そう思いながら、傷の辺りを覆うようにマフラーを巻き直した。


++++++



月が、夜の闇を照らしていた。微かに吹く風が、伸びた髪をさらう。

見回りには出てきたが、どこもかしこも平穏そのもの。気配も点々と、微かなモンだ。
適当なところで立ち止まって、辺りの気を探る。
動く獣の気配が数匹、夜に狩りを行う奴らがうろついている。
だが、こっちに気付いている風ではない、放っておいても問題はねェ。
エンブリオの気配もない。色んなヤツがいるが、これまで夜に遭遇したことはねェ。
夜には、動かないモンなのかもしれねぇが、よくは知らん。
まァ、詰まる所、


「全く以って、異常なし、ってところか」


呟きに返る声もない。これから先、何かに出くわさない限りはだが。
ここからゆっくりと進み、一週回って焚き火の位置へ戻る頃には、ちょうど火の番の交代時間になるだろう。
後は一眠りして、明け方の番に備えればいい。



何の気なしに空を見上げれば、半月に少し足りない月と、星が空に散らばって輝いていた。
月明かりには魔力が宿る、なんつーことを外国（そとくに）やこの世界では言うようだが、実際、まァ近いモンはあるのかもしれねェ。
月の出ている夜の方が、随分と楽に変化を出来るからだ。



月がもたらす力を抜きにしても、子狐の姿から人の姿に身を変えて動くのには随分、慣れてきた。
維持に使う力も、段々と負担の掛からない程度になってきている。そのことに、知らず口端が釣り上がる。重畳重畳。
元はといえば、こっちのナリで居ることの方が多かったンだ、感覚が戻ってきたことは素直に喜ぶべきだろう。
まだまだ元通りとはいかねェが、一揆に参加した頃よりはずっとマシになっている。
この調子なら、こっちに来る前の力を取り戻すのも、そう遠くはないかもしれねェ――




「……？」


振り返る。それは、一瞬で、捉えようも無かった。
手繰り寄せようとした気配は、すぐに霧散して、掴むことすら出来ない。


「気のせい、か？」


思わず口に出したが、そう言ってもいいくらいに、薄い、何か。
研ぎ澄ましていた感覚ですら捉えられず、漠然としか言い様のないそれは、一体。
思考を巡らせようとして、――やめた。


「……阿呆くせェ」


意味のわからねェモンに、頭を使うのは馬鹿らしい。
今に何の影響もねェなら、意識の片隅に引っ掛けとくくらいで十分だ。

踏み出す。
かすかな風が頬に触れ、地面のざらつきを足に感じる。
そうして前へ、前へと進むうち、俺はそのかすかな何かのことを、記憶の縁からも落とした。

　一日の進攻も終わり、今日はここで休息を取ろうと準備をしていた時のこと。

　かなりの躊躇いの後、徐に橙色の包み紙に深緑色のリボンが掛けられた、何やら小ぶりのプレゼントのようなものを手渡す。

　一方的にそう言って、そそくさと向こうの方へ歩いて行った。
　中を開ければ、ほんのり焦げ気味のカボチャの種入りのアーモンドシンが何枚か入っている。
　食べたらほろ苦いが、まあ、食べられるレベルではある。

一歩、前へ進み出る。
深呼吸をひとつ、武器を構えると、敵を真っ直ぐ見据えた。

無言で武器を構えた。