「先に帰ってもらってても、いいかな」

　コトカとミハウと最後の行動を共にして、その帰り道。街に入る一歩手前で足を止めて、前を歩く二人を見つめた。

「へ？ 先にって、アリシアどっか行くの？」
「もう日も暮れる。何処かに行くなら俺たちも」
「ううん、一人で行きたいんだ」

　心配そうに声をかける二人に、首を横に振る。
　気持ちは分かるし、無駄な心配はかけたくないけれど、それでも。どうしてもこれは自分一人でしなくてはならないことだ。

「終わったら、すぐ帰るから」

　ごめんね、と。一言それだけ残し、振り返らずに私は走り出した。


＊


　辿り着いたのは、街から幾分か離れた場所にある見晴らしの良い丘だ。暮れかけの陽が地面を紅く染め、もうすぐ今日も終わることを示している。今日が終われば、明日が来て、明日が来たら、また次の日が。
　でも、此処で残されている時間はそう多くない。だから。

　走ってきた自分にふよふよと浮かびながら着いてきた二人を振り返って、声を掛けた。

「その、……帰る方法、見付かったんだ」

　今までエンブリオ達には告げていなかったその一言を、口にする。すれば二人は目を瞠って、片方は笑みを浮かべ、片方は俯いた。

「ふゥン、そォなんだァ？ 良かッたわねェ？」
「うん。良かった」
「でもなンでェ、こンなとこまで来てェ、そんなこと言うわけェ？」

　ただそれだけを告げるだけなら、宿でも良かったじゃないかと。彼女はそう言いたいのだろう。確かにそうだ。それだけ告げるだけ、なら。
　それだけではないから、此処に来たのだ。人気の無い、誰かに見つかることのなさそうなこの場所に。

「君たちは、やりたいことがあるんじゃないかなって」
「……やりたいこと、ですか？」

　俯いていた片方が、顔を上げる。不思議そうな表情を浮かべてはいるものの、その赤の瞳の奥に宿る狂気には、気付いていた。

「菫、奪うの？」
「！」

　だから彼らがそれを実行する前に、こちらから口に出して言及する。私を見つめていた瞳は大きく見開かれ、どうして、と小さく口を動かした。
　動揺した様子の天使とは対象に、兎は楽しそうに、楽しそうに笑う。

「アハハハッ、なァンだアリシアちゃンッてばァ、気付いちゃッたンだァ？ それともォ、誰かに教えて貰ッたァ？」
「優しい女の子が教えてくれたよ」

　目を閉じて、夢の中のあの子を思い出す。泣いて、泣いて、それでも笑った、あの子のことを思い出す。そう長く同じ時を過ごしたわけじゃない。会話を交わした数さえ片手で数えられる程度だ。けれど、なんでか痛い程自分は彼女の気持ちが分かるのだ。それは魂が近いせいもあるし、こうやって。
　こうやって、それなりの時を、三人と過ごしたから。

「もし、そうだと、したら……どうするん、ですか？ それを知って、アリシアさんはどうするんです？ 大人しく瞳を差し出してくれるんですか？ その菫を、僕らに渡してくれるんですか？ そうじゃないなら、それとも、僕らを」
「――聞きたいことがあるの」

　震えた声の天使の言を遮って、目を開けた。
　また俯いている天使。未だ笑ったままの兎。きっと目の前の二人はずっとずっと、色んなもので本当のことを隠していた。涙や、笑顔で、本当の気持ちや想いを覆い隠していたんだろう。
　自分は気付けなかった。違和感を感じ取ることしか。だから、今知りたいのだ。
　二人の本当の真意を。

「菫は本当に、悪いものかな」

　ぽつり。独り言のように自分が零した言葉を、真っ先に拾って反駁したのは、

「……そんなの、悪いに決まってるじゃないですか」
「どうして？」

　顔を上げ、こちらを睨み付けた天使。
　首を傾げて理由を問う。見ようとする。その瞳の中の狂気、そしてそれよりも奥にある二人の。

「だって、菫があるから、苦しむんですよ。菫のせいで、あの子だって、ずっと閉じ込められて、したくないことされて、可笑しいじゃないですか」
「菫の子はァ、その菫のせいで不幸になるのよォ？ 頭の狂ッた人間どもに狙われてェ、一生籠の中で過ごしてェ、幸せになンかなれなくてェ」
「許せないの？」
「許せないですよ。そんなの許せない。だから僕たちは、菫を無くすんです。菫の子が菫じゃなくなれば、菫の子は幸せになれるじゃないですか」
「まァ、その過程で菫の子死んじゃッたりするけどォ？ でもォ、そのまま生きるより幸せだわァ」

　ただぼんやりと感じた。この二人はもう、見えなくなっているのだ。
　それが正しいか正しくないかとか、良いことだとか悪いことだとか、そんなことじゃなくて。そんな話ではなくて。
　二人が掲げている言葉は、口にする言葉は、結局はきっと、単なる建前でしかない。

「本当に？」
「疑うんですか？」
「疑うよ」
「どうして？」
「幸せだって本当に思うの？」

　二人が息を呑む。不意を突かれたように目を瞠る。ああやっぱりそうだ。
　顔を逸らした兎の横で、天使はそれでもこちらを睨みつけたまま、声を震わせた。

「……思いますよ、幸せに決まってるじゃないですか、だって菫が悪いんだから、菫さえ無くなれば」
「違うよ」

　言葉を否定する。上っ面だけの建前なんて、全部否定してやろうと。だって、救ってあげなくてはいけないのだ。見せてあげなくてはいけないのだ。私は彼女に頼まれたのだし、それよりも、何より。
　二人のことが好きなのだ。
　短い間だったかもしれないけれど、共に過ごした時間はとても楽しくて、充実したものだったから。
だから、気付いてほしいんだ。

「二人は、アリスを自分たちの手で殺したその事実を認めれないだけだよ」
「……ッ」
「許せなかったのは、菫じゃない。彼女が置かれたその環境。それをどうすることも出来なかった、自分たちの無力さ、そうでしょう」
「急に何、知ッたような、口……！」

　兎が初めて笑みを消した。兎が初めて私を睨んだ。けど、少しも怖くない。それでいいんだって思った。

「もうやめようよ」

　向けられた殺意。気付いたけれど、でも、少しも怖くない。それは揺らいで不確かなものだから。

「こんなこと続けても、」
「煩い、」
「……誰も幸せになんか、なれない」
「――うッさい！！」

　飛び掛ってくる小さな身体。真っ直ぐ向けられた鋭い爪、確かに感じる魔力の波動。
　でも、怖くない。これっぽっちも、怖くない。

　大丈夫だって、分かってる。






「……辛かったんだよね」

　眼前で止まった切っ先に、溜められたままの魔力の塊。震える小さな二人の身体と、零れたのは透明な雫。
　両手を上げて、指先で髪に触れる。

「大事な人、亡くしちゃったんだもんね」

　この子たちは、あの子にとって初めての友達だったけれど、それはこの子たちも同じだったのだ。
　初めての友達。孤独を癒し、感情を共有し合える大切な人。
　
「大切にしたかったんだよね」

　その方法を誤ってしまっただけ。相手を想う気持ちは本当のものだったのに。
　嗚咽が聞こえる。溜めてきた沢山のもの、溢れ出して、きっと止まらないのだろう。でもそれでいい。
　壊さないように潰さないように、二人の身体を抱き締める。今日まで沢山の力を貸してくれた、大切な友達。

「ずっと、ずっと、一緒に、居たかった、んです」
「うん」
「いッぱい、遊びたかッた、だけ、だもン」
「そうだね」
「なんで、僕たち、今まで、ずっと」

　抱き締めながら、頭を撫でる。泣きじゃくる子供をあやすみたいに。実際、二人ともきっとまだまだ子供なんだろうけれど。

「気付いてくれて、よかった」

　気付いてくれると信じていた。自分の心を、行いを、真っ直ぐ見つめてくれると信じていた。
　辛かっただけ、寂しかっただけなのだ。

「ね、二人とも。……もう、こんなことは終わりにしてさ」

　だからこそ、傍に居てくれる誰かが、きっとまだ必要だから。

「アリスの所に、帰ろうか」

　間を開けて、小さく二人が頷いた。
　彼女の望みを叶えよう。二人の望みを叶えよう。
　それはちょっぴり悲しくて、寂しいことだけれど。それで二人が幸せになれるなら。

「アリシア、ちゃン」
「アリシアさん」

　名前を呼ばれて、二人を見た。
　涙を零しながら、それでも綺麗に笑って、もしかしたら二人の本当の姿はこれだったのかなあ、なんて。

「ごめンなさい」
「ありがとう」

　ああそんなの私だって、と。一緒に笑った。

「……こちらこそ」


＊


　少女の手にあるのは兎と天使のぬいぐるみで、地を照らす赤い陽が見えなくなるまで少女はそこで立っていた。
　俯いていて表情は窺えない。そんな少女の下へふわふわと、小さな身体を持った少年が近づいた。

「悪いな、俺らのせいで」
「……ううん」
「お前しか出来なかったから」

　ぬいぐるみ達は、白い少女によって命を与えられた。それは菫だからではなく、あの少女だったから出来たことで。そしてその逆を出来るのもまた、白い少女だけなのだ。
　それなのに、白い少女は死んでしまった。与えた命をどうすることも出来ず、ただ罪を重ねる大事な友達を遠くから見つめることしか出来ず。だから、望んだ。皆を解放してあげたいと。

　そしてその願いを、彼女に託した。

「これで良かったのかな」
「良かったんだろ、頷いてたし」
「そっか」

　白い少女と魂が近い彼女だからこそ出来たこと。
　もう動かない、喋らないぬいぐるみを見下ろす少女の肩に少年は乗った。

「ずっと後悔してたんだよ、俺があんなこと言わなきゃ、こいつらこんなことになんなかったって」
「……」
「止めるにも止められなくて、誰かに助けてほしいって」
「……私、助けれた？」
「おう」

　大きさの全く違う、小さな手で少年が少女の頭を撫でた。辛いことばかり背負わせてしまったと心の中で思うものの、そのことを謝ればまた嫌がられるのだろう。だから何も言わずに、優しく。
　少しの間、何か堪えるように肩を震わせていた少女は、それでも顔を上げて少年を見つめて、笑う。

「……じゃあ、君もだね」
「そうだな、宜しく」
「うん」

　撫でる手が降ろされると同時、今度は彼女が少年に触れる。片方の手で二つのぬいぐるみを抱き締めて、もう片方の手で彼を抱き締めて。

「今まで有難う」
「こっちこそ」
「楽しかったよ」
「俺たちも」

　名残惜しむように言葉を投げかける少女に、少年もまた律儀に言葉を返す。
　いつかは別れなければならないことを分かっていたとしても、それでもいざその時になれば寂しいもので。
　いつまでも掴んでいたくなって、でもそれは許されないから。
　少女は別れの言葉を口にした。これで最後だ。全部、全部が。

「ばいばい」
「……ああ」

　悲しい菫の話は、もうお終い。

　と、続けようとしたが、アリシアの言葉と――笑顔を、見て。

　イヌワシは、いつも以上にやる気のようだ。

　一つ、大きく羽ばたいた。

　　　　　　　　　きみ達は下がって。 最初だけ、僕がきみ達を守るよ。 ）

──何処からか 声が聞こえる。
くすんだ青と白が溶けるように入り混じり、やがてそれは、ウサギの形を成すだろう。

影のような幻は、今にも消えそうに風に揺らいだ。

そう言った子狐の姿が、霞む。

変化は、一瞬。

長く伸びた紫銀の髪を背に払い、橙色の瞳を鈍く輝かせ。
好戦的に笑う青年が、そこにいた。