夜、灼けるような指の痛みで浅い眠りが破れる。喉の奥に殺した苦鳴が吐息としてこぼれる。夜気の底冷えが石造りの床で牙を潜め臥している。蛇のように。壁と天井に遮られて見えない月を、気配としてだけかすかに頭上に感じる。まだ夜は深い。闇の向こうでフィガロがかすかに身じろぎする。ヤールはあれほど白い男が暗闇のなかには不思議と溶け込んで平らかに存在する。

痛みは右の薬指に巣食う私の悪魔を焼く火だった。広庭の花々の一隅に見いだしたその小さな悪魔はいつしか馴染みの時を過ごすエンブリオ、私のうちに育つ小児のひとりとして名を連ねて……そうして今や死にかけていた。天使の投げる薔薇に灼かれて死した悪魔を歌う戯曲のドラマティクな筋書きよりは今少し俗な力学に支配されて、その死因はつまるところひとつの力関係だった。悪魔を灼く火は、今ひとりの悪魔の宿す灼熱だった。オルソ、あるいはオルスロゥ、それともオルトロスと呼ばれるあの黒い犬の。

私たちはネクターを貨幣にエンブリオと契約を交わし、その力能を操る。エンブリオはなにがしかの在り処を持ち……私やフィガロの場合には契約者自身の肉体をしとねとして、《内に育つもの》を意味するその語源の通り、私たちの内奥で日々に成長する。しかし生命力を土壌とする契約者の庭に、それが咲くことのできるエンブリオの数は自ずと限られていた。それゆえある時々には、契約を交わすエンブリオたちの間に、己の存在するための場を懸けた争いを避けられないこともあった。争いの場となる私の肉体はそのたびに拭いがたい痛みを覚えるとはいえ。オルトロスの火が燃えている。悪魔の力能にいつも伴ったあの硫黄に似た香りがひときわ強くなる。私の指の中でひとつの存在が痕跡に変わり、記憶のほかにはもとの姿を留めおけない灰に変わる。……

針の上に天使はひとりしか存在することができない。神学上の天使の性質は措いて、私のエンブリオは逃れがたくエンブリオとして受肉している。それは存在として物質的な場を占め、認識の対象として形而上的な場を占めている。けれど天使の在り処は見つめようとしても見つめられない。おぼろげに左手、と、私の聖性を保つあの清潔な左手のあたりと名指すことはできる。そのあたりに天使がいると語ることはできる。しかし、そこに確かに場を持っている avoir lieu はずの天使は、どこという具体的な語りからいつの時も遠ざかる。時にそれは非在であり、時にそれは存在となる。私のエンブリオたちのなかで、天使だけは特権的に、在り処の逃走から逃れてある。

悪魔はおおよそが燃え尽きたように思われ、薬指の痛みも少しずつ治まり始めていた。もはや悪魔であったのかもわからないかすかなエンブリオのための糧が残り――エンブリオは解約とともにそうした糧を遺す、残骸のように――灰が私の薬指の奥でしかしまだかすかな熱を保っている。

母もまた火葬に葬られた。移民である彼女の生前に望んだその異土の風習は、とはいえまったく新奇な儀礼でもなく、おおむね滞りのない手続きで彼女は灰になったという。母を焼く火には立ち会えなかった。故郷とは違う世界に私の革命を為していたさなかで彼女は命を落としていたのだから。父もまた葬儀には現れなかったという。彼もまた彼の愛する政争に勝利をもたらすための工作を、南の炭坑街で工面していたそのまさに仕上げのところにあったからだという。
自ら引き受けた革命を呪ったのはあの時きりになる。

「ああして灰になってしまえばわからないものだね。骨はずいぶん燃え残っていたけれど、顎や、腰や……大きな骨や硬い骨が焼け残るのだそうだよ。からからになっているものだから、いくらかは砕けて、それともあれは砕いたのかな、粉になっていた。いや、しかし、火葬とは、恐ろしいものだね。思想と趣味の違いだろうが、私は、五体揃って棺の中で、土に静かに埋まりたいよ。……」

印刷工としてそれなりに優秀だった母は、幸いにして職人をはじめとした仕事仲間たちから浅くない人望があり、葬儀はそうした母の取引相手や友人、仲間たちに執り行われていた。母の採字の速さと正確さを高く買っていた年長の印刷工は親戚のようになにくれとなく私たちを世話し、彼の穏やかな優しさに私と母は助けられていた。私を呼び戻す便を出してくれたのも、母の亡骸を見つけたのも、人の死に伴うあの煩雑な手続きのすべてをなしてくれたのも彼だった。異世界からひとつの革命に挫折して戻った私を迎え、母の葬儀の次第を話していた彼の沈んだ顔は今でも思い出すことができる。
彼には子がなかった。そうして彼は頑なに、たとえ戯れにでも私が彼のことを父と呼ぶのを禁じていた。娘ではないんだよ、オルガ。そうではないんだ。

彼の保管していた母の灰を見てもそれが母だとは思われなかった。それは灰だった。どんな想起も遮る、挿話のほかには手がかりを持たない、途切れ、断絶された、遡ることのできない、帰らぬ、過去を代理することのない、打ち捨てられた痕跡だった。母だ、と語ることでしか母とのつながりを語れない、そうしてその語りは語る主体の記憶、あの不確かで不透明なあの《記憶》記のほかになにも保証のない、行き止まりの灰。……

その灰は結局のところレルヴォヴェールの墓地に埋められている。どれだけ異界の風習を認め、それを受け入れたとしても、具体的に親族の手を放れて亡骸を保管できる公共施設は、土葬の墓地のほかはなかったのだった。土葬を拒んだ母の最後は土中に閉じ込められることになるのが、正しかったのかどうかはわからない。だが彼女は埋められることを忌避したのではなく、より積極的に、焼かれることを望んだのではないかと私には思われた。焼かれること、自分を灰に変える炎に身を差し出すこと、有限から永遠に変容すること……

いや、すべてはわからない。灰は行き止まりだからだ。空想することはできる。けれどその空想はいつも遡りきれない断絶に突き当たって停止する。過去はたどり着けないはるか時間と空間の彼方でとうに燃え尽きている。現在には灰が残り、記憶だけが忘れきれないものとのつながりを、妄念として保とうとする。……記憶だけが灰を超えようとする。

右手の痛みは落ち着いていた。悪魔はオルトロスの火に燃え落ちた。荷物から、ネクターを取り出して、ひとしずくを舌にのせ、満足げに指の中で息を吐く双頭の魔犬へ今ひとときの火種を注ぎ入れる。犬は悦ばしげに指先を少し熱くした。内観を探っても、悪魔の気配は消え失せている。記憶だけが遺されたまま。

木にもたれ掛かる青髪の耳長を振り返って。