ミハウを探して、ウルヘアとイェジとで水辺を進んで。
　その先で現れた大きなイカを倒した、と思ったら。

『……ちょーっと待ってなァ、嬢ちゃん。あの野郎連れてくっからよ！』

　イェジはそんなことを言って、道の先へと駆けていった。
　唐突だったから、追いかけることもできなくて、私とウルヘアはその場に取り残された。
　彼はまだ、帰ってこない。

「……ウルヘア」
「ピィ？」
「イェジ、……帰ってくるかしら」

　少しだけ、不安になる。
　ミハウを連れてきてくれるのだろうけど――彼が居なくなった時のことを、思い出す。
　ウルヘアはもう一鳴きした。私を気遣うように。

「……ごめんね。この前から、心配かけて」
「ピーィ！」

　そんなことはない。気にはしていない。ウルヘアの気持ちが伝わってくる。
　ウルヘアとは対等な関係であるつもりなのだけれど、彼は私のことをよく心配してくれるし、考えていてくれる。私がそう思うよりも、ずっと。
　彼が私を見る目は、父様や母様、ニコおじさまのそれと近い。
　やっぱり、私はまだ一人前なんかじゃなくて、未熟で、駄目だな、と思う。
　周りの大人たちとエンブリオの関係は、家族でも主従関係でもなくて、良き隣人であるように見えた。互いの価値観を尊重し、協力し合う対等な関係。
　だから、私もウルヘアとはそうあるべきだと思うのだけれど、現状はこうだ。

　軽く、首を横に振る。思考を無理矢理に打ち切る。
　不安で、余計なことばかり考えてしまう。
　イェジが行ってから、どれくらい経っただろう。
　そう思っていたら、ウルヘアが鳴いた。釣られて、その先を見る。
　イェジと、それから、こちらにゆっくり歩いて来ているのは。

「……ミハウ」

　ぽつりと名前を呼ぶ。決して、聞こえはしていないだろうけど。
　無事だったことに、安堵する。
　どう話そうか。話したいことは決まっているけれど、いざその姿を見たら、言葉は纏まってくれそうにない。
　ウルヘアは私とミハウを見て、何を思ったかは分からないけれど、ふわりと姿を消した。

「……コトカ、さん」

　ミハウは、顔が見えるくらいの距離で立ち止まった。
　名前は、さん付けしたままだ。
　私は視線を上げる。彼を見る。彼は狼狽えたように見えた。

「怪我は？」
「何箇所か……どれも軽度では、ありますが」

　彼は自分の姿をちらりと見下ろしてから、もう一度、今度は揺れることなく目を合わせて答えた。
　目に見えて酷い怪我は無い。言う通り、軽度なのだろう。それは、良かった。
　それから彼は、何度か口を開閉し、

「その……すみません、でした」

　聴こえたのは、謝罪の言葉。
　――何に対して、なのだろうと。

「今、何で謝ったの」
「何で……君との、……約束を破ってしまった、からです。それに、心配、をかけましたし、……だから、」

　覚えていたのだなと、ぼんやりと思った。あの時の約束を。
　でも、そうとは言わない。そんなことを言ったら、彼はまた謝るだろうから。

「……そうね。心配、したわ」

　だから、と彼を見て。
　表情を和らげようとする。きっと、ぎこちないけれど。

「無事で、良かった」

　それは、心から思うことだ。
　ミハウは息を呑んだ。その表情は、酷く驚いていて。
　問う声は、たどたどしい。

「……怒って、ない、んですか……？」
「心配した、って言ったでしょ。怒る、って言うよりは、……悲しかった」

　怒っていたと思われていたのだなと考えると、それも少し悲しかった。
　でも、大体、私のせいだ。彼に、きついことばかり言って。そう思われても、仕方が無いのだろう。
　ミハウは、何を言うべきか迷っているように見えた。

「……すみ、ません」
「……あのね。話したいこと、色々あるの」
「え、あ……はい。その、あちらに、座りませんか。……立ち話は、疲れてしまいますから」

　謝罪はもう聞いた。何度も謝ってほしいわけではない。
　聞きたいことは、他にある。
　ミハウの提案に頷いて、指差された座れそうな場所に腰を下ろす。彼も、少し間隔を開けて、傍らに座った。
　あの時と――ミハウが、居なくなる前に話していた時と、似たような状況だな、なんて思う。

「……いなくなる前に、話してくれたでしょ。使命のこと」
「……ええ」
「ミハウにとって、本当に大事なことなんだなって、思ったわ。……でも、それなら、もっと早く言ってほしかった」

　状況として無理なものはあったけれど、それでも。
　彼の事情は、仲間として、もっと早く知っておくべきことだったと思う。

「……、それは、そ、の……私の、問題でしたし、……心配を、かけたくなかったんです」
「言わなくたって、心配したわ。様子、変だったもの」

　分かるわ、と言い切る。
　そう短くない期間、今まで一緒に過ごしてきたし、ミハウは嘘が下手だ。
　だから、そのくらいは分かるのに。
　彼は隠そうとした。心配をかけないために。
　そうは言うけれど、もしかしたら私は信頼されていないのではないか、と。
　そんなことすら思って、酷く不安になる。

「ええ、そう、ですよね……下手な、嘘、でしたし」
「……ミハウはどうして、ニコおじさまを探すの、手伝ってくれるって言ったの」

　一緒に旅をし始めて、そう経っていない頃だったと思う。ミハウと、それぞれの一揆への参加理由を話したことがある。
　彼が私に伝えたのは、端的なものだったけれど、私は叔父――ニコおじさまを探している、と話した。
　それを聞いて、自分も手伝う、と。彼はそう言った。

「それは、……探しているということは、コトカさんにとっては大切な方でしょうし、それに……ひとりよりも、ふたり、で探した方が、いいと思って…」
「私だって、同じ気持ちよ。私だって、」

　同じ、気持ちだ。
　一人より、二人で探した方が、ずっと良い。
　だから、もっと早く言っていてくれたら、何か手伝えたかもしれないのに。
　彼が話してくれるくらい、もっと私が信頼されていたら、力があったら、何かできたかもしれないのに。

「……あなたの力に、なりたかった」

　そんなことばかり、思う。
　視線を落とす。彼を見ることが、できない。
　あ、と声が零れたのは、聞こえた。

「……、私は、本当に、……」

　ばかだ、なんて続けて聞こえた。
　ミハウは馬鹿だ。
　鈍くて、下手な嘘ばかり吐いて、全然、こっちの気持ちに気付かないで、一人で悩んで、挙句の果てには逃げ出して。
　ミハウの馬鹿。
　それが全部、優しさとか、迷惑をかけたくないからだとか、そういうところから全部来てるから、また性質が悪い。
　ミハウの馬鹿。
　少しは、頼ってくれたって、良いのに。
　どうしてこうも、上手く行かないんだろう。
　気持ちが、伝わらないのだろう。
　ミハウの、ばか。

　コトカさん、と呼びかける声が、聞こえた。さっきよりは、芯の通ったそれ。
　徐に顔を上げると、ミハウは軽く頭を下げていた。

「その、まず……ご心配をおかけして、申し訳ありませんでした。本当に」
「……別に、もういいわ」

　聞き飽きたくらいだ。彼が悔いていて、申し訳なく思っていることくらいは、分かるのだから。

「ええ。それと……ありがとうございます。心配してくれて。探しに来てくれて。……力になりたかったと、言ってくれて」
「……私がしたかったから、そうしただけよ」

　何だか気まずくて、つい視線を逸らす。そう仰々しく謝られたり、お礼を言われたい訳じゃなかった。
　どうしてほしいのか、と言われると、それはそれで困るのだけれど。

「……それで、これから、」

　これから。
　私は、どうしたいかは決まっている。私と彼は、すれ違ってばかりだけれど――でも。
　そう言おうとしたけれど言葉にならなくて、憚られて。
　どうしても、言えなくて。

「どうするかは、決まった？」
「……はい。私は、」

　苦し紛れの問いかけに、いつになくミハウは真面目に応えた。
　僅か、上げた目に映る彼は、真剣な面持ちをしている。
　あの時、似たようなことを問うたら、謝られて、彼は居なくなって。
　また、そうなったらどうしようと怖くなる。
　私と彼の答えが違ったらどうしようと不安になる。
　私はそう思っていても、やっぱり、ミハウは違うのかもしれない。
　彼の言う使命は、重い。
　優先されるべきであると、そうも思う。
　けれど、

「……君と一緒に、行きたいと思います。けれど、だからといって、使命は捨てません。どちらも、守りたい。大変だとは思います、けど……でも、もう、逃げたり後悔したくないんです。……なので、その」

　聞こえたのは、そんな言葉で。

「……一緒に、来てくれませんか？」

　彼は、私にそう言った。あまり、自信は無さそうだったけれど。
　それでも――嬉しかった。
　一緒に来てほしいと言ってくれたことが。そう思ってくれたことが。

「……もう、勝手にいなくならないって、約束してくれる？」
「はい、約束します」

　素直に、嬉しいと、信じると伝えられたら良いのだろうけれど、どうしてもあの時のことが脳裏を過る。
　声が、震える。

「本当に、約束よ？」
「約束です、……ええと、コトカさん。手を、貸してもらえますか」
「……名前」

　ミハウは重ねて言うけれど、信じ切れなかった。きっと、それは伝わってしまっているだろう。
　それから、何か考え付いたらしい彼に、名前のことを言いつつ、手を差し出した。呼び捨てにするのも、約束の一つだ。
　一体、何をする気なのだろう。握手でもするのだろうか。

「あ、ええと……コトカ」

　ミハウは出した手を支えるように、自分の手を添えた。

「君の傍から勝手にいなくなることも、一人で何かを抱え込むことも、しないと約束します」

　誓いでもするかのように言葉を述べて、柔らかく笑うと――手の甲に、口付けて。

「……これで、信じてくれますか？」

　彼は顔を上げる。
　平然と。
　何事も無いように。
　え、あの、ちょっと待って。
　今、彼は私に、何をした。

「……、……ミハウ、今の、何」
「え？　あ、ええと、……単に約束します、といっても、信憑性ないかなと思って、その、故郷での風習というか、……え、と」

　段々と説明はたどたどしくなっていく。
　そうしたのは自分じゃない。どうしてミハウが動揺してるの。おかしいでしょ。

「……故郷では、約束する時に、そうするものなのかしら……」

　頬がとても熱い。顔を背ける。キスをされた方でない手で、口許も押さえる。触れた頬は、やっぱり熱かった。
　一体、どういう風習なのかと。うちではそんなことは無かった。
　風習と言っても、こういう時にするものなのかと。
　男女間でするものなのかと。
　ミハウと私でするようなものなのかと。
　駄目だ。混乱してきた。頬はどんどん熱くなる。

「あ、いえ、……そんな、その、気軽には、しないですよ……けど、でも……、それくらいは、大事な約束だと、思いましたから」

　気軽にはしない。大事な約束だから。
　そのくらい、大事な約束だと思った、のだろうか。その行為が意味することの重さは、今一、分からないけれど。

「……そ。分かった、……信じるわ」

　辛うじて、小さくそう返す。
　とりあえず、そう言うしかない。よく分からないけれど、何だか重たそうなことは分かった。多分。
　駄目だ。こんな短時間で落ち着くわけが無い。ミハウが真剣だってことくらいしか分からない。

「ありがとう、ございます。……あの、コトカ」

　少し、迷うような沈黙。気まずい。
　気まずいけれど、

「……そろそろ、行きましょうか」

　そんなことを言われても咄嗟に動ける訳は無い。
　ミハウは絶対に、自分のしたことの突拍子も無さ、分かってない。
　少なくとも私にとっては、すごく驚いた。いきなり、あんなこと。
　本当に、単なる儀礼的なものなのだろうか。今のは。
　こんなに動揺している私の方が、おかしいのだろうか。
　ぐるぐると思考は回る。
　でも、返事をずっとしないのも、不自然だ。落ち着くために、何度か深呼吸。
　結局、少しの間、黙っていたと思う。

「……うん。探さなきゃ、いけないものね」

　いつものように、言えただろうか。言えていますように。
　それから、私とミハウは、歩き出す。
　ミハウの顔は、暫く、見ることができなかった。

地下牢に蔓延るこの気詰まりな空気が、ひどく。

二人を見て挨拶をし、浅く一礼して。
子狐は肩の上、じっと二人を眺めている。

　ウルヘアは警戒している。

　イヌワシは、一つ、大きく羽ばたいた。