【2年前】

「……ふぅッ！」

　高く晴れた秋空の下、私は久々に日本の地に足を着いた。雑踏の中、涼やかな風が落ち葉を巻き込み、人ごみの間を通り過ぎていく。

　この1年、私は世界中を飛び回り、失われた私の記憶を辿ってきた。手がかりは決して多いとは言えなかったが、私の『財』の力をもってすればそれらをかき集めることも容易いことだった。

　――笹原　凛（ささはら　りん）。それが私の名前、だそうだ。偽名の可能性は限りなく高かったが、その中でも私が最も多く名乗っていた名前だ。世間的にこの名で通っている以上、これが実質的な本名といっても問題は無いだろう。

　そして、私がこれまで行ってきたことも段々と分かってきた。強き者、弱き者、富める者、貧しき者、老若男女問わずありとあらゆる人間を騙くらかし、その資産を、尊厳を、自由を根こそぎ奪い去っていったという。しかし結局のところ、何故そこまで『人を騙す』行為にこだわり、あるいはのめり込み続けたのかは分からなかった。

「さて、と」

　私はこの国に帰ってくるにあたり、一つの決意を固めていた。

「まずは住む家、見つけないとね」

　過去を捨てる覚悟を。過去の私を殺す、その覚悟を。――大げさに言えば、こんなところ。

「……海がいいかな。海の見える場所――あと、あんまり人の多くない場所」

　実際には、これ以上の過去の詮索を止めて、退屈で平凡な日常へ己を委ねるだけのことだ。といっても、その退屈だとか平凡ということすら、記憶を失った今の私には想像すらできない未知の世界であったが。

　そんなことを考えつつ、飛行機から降りた後は空港からバスに乗り、辿り着いた都心からさらに電車を乗り換えて北上。鈍行列車に揺られながら、適当すぎる道のりで日本海へ向かって進み続けた。

　鈍行列車の終点は、海までまだ距離のある山間の辺鄙な地だった。日は少し傾きかけていたが、山越えのバスはまだ運行中のものが残っていた。私の他に数人のみを乗せたおんぼろバスが、つづら折りの山道をゆっくりと走っていく。この道は、私をどこへ導いてくれるのだろう――

　とりとめのない考えが頭を巡るうち、いつの間にか私は睡魔へ誘われ、意識を失っていた。





「……ん」

　目を開けると、バスは前扉が開いたまま停車していた。周囲を見回すと、乗客どころか運転手の姿すら見当たらない。外は暗がりの中薄い霧が立ち込めており、少なくとも終点という雰囲気ではなさそうだった。運賃箱に一応お金を入れ、私は道路へ降りる。そこには停留所の立て看板も、人が居るような様子も無い。

　道路を辿り進もうとしたが、その道はすぐに草木に阻まれ行き止まりとなっていた。諦めて引き返したその先には、先ほどまでその場所にあったはずのバスが忽然と姿を消していた。

「狐にでも化かされたかな、これは」

　携帯電話の淡い灯りを頼りに辺りを注意深く観察したところ、叢の中に人が分け入ったような跡がある場所があった。どうやら何人もの人が行き来している獣道らしく、ゆるやかな登りとなっている斜面にはまだ新しい足跡もあった。

「（でも、まだ人の気配はしない）」

　木立の間を縫いながら斜面を登り切った、その先には。

「わあ」

　一面に咲く、漆黒の花。月の光に照らされたそれは、まるで命を持つかのように小刻みに揺れ、光と影を交互に作り出していた。

　そして、その花の中に立つ、一人の女性。

「え」

　私と同じ顔、恰好、表情をした、女性が居た。

「――弱いな」

　それは私を見て、開口一番そう言った。

「肉体的な強度も、卓越した技術も、まして磨かれた精神も感じられない。だが、この資質は」

　ぐ、と拳を握り、力を抜く。私の顔をした女性は、私のしたことのない表情で――鮫の様な笑顔で。

「単なる戦闘適正では無いな。愉しまず、昂らず、ただ勝利へと邁進する。何の味気も無い、しかしそれ故に、恐ろしい」

　掌を私に向け、彼女は私に言う。

「私と『契約』してみるか、女。私とお前は、よく似た欠け方をしている」

　私の想像する日常とは程遠い光景。あるいは慣れ親しんだ非日常。私は彼女へ、手を伸ばす。

　その日、私はメルンテーゼへ流れ着いた。第二の人生を歩む、その地へと。