夕食に使った鍋や食器の類を洗い終わり、それでもまだ少し眠るには早かったので、適当な所に腰を下ろし、服に固定していた書を取り出した。すると、ここぞとばかりに小さな虎が傍に寄ってきた。
　今の時間は、他の面々も各々の研究や作業で忙しいだろう。無邪気ながらもその辺りは判るらしい虎は、先ほどから植物を叩いたり咥えたりして、ひとりで遊んでいるようだった。
　いつもはうろうろしている悪魔も、暇な小虎の相手をさせられるのに辟易したか、どこかに逃げてしまった。
　こういう時、狼や鳥達は要領よく隠れてしまう為、必然的に相手をさせられるのだ。

「本に爪は立てないように」

　おいでなさい、と呼ばわると、すぐさま膝の上に陣取り、ぐりぐりと頭を擦り付けてくる。……匂い付けだろうか。
　膝の上から書を見上げ、ゆるりと尻尾を振る。頭をひとつ撫でてやり、書に注意を戻す。
　他愛のない掌編の中には、今となっては懐かしい習慣が溢れている。店先でのパンの並び。雪の中に様々なものをしまっておくこと。菓子や縁起物を並べ、目を閉じてひとつ選び、一年の運勢を占うようなこと。
　今日、行われるという、ルリアンナの誕生祭ほど盛大なものではないにせよ。

（彼女は一体何者なのだろう）

　そもそも、あれだけの一揆参加者に配るネクターを、どこから調達してきたのか。
　いくらかは自力で手に入れた者も居たかもしれないが。どうも彼女の存在に関しては、あまり深入りしたくないという意味でも、恐ろしい秘密が隠れている気がしてならない。
　とはいえ、祭りそのものはいいことだ。色々と考えた末、馴染みのある故郷の料理を選んでみたが、それは果たして『誰か』の口に合うものだろうか。
　『誰か』は全く知らない人かもしれないし、賞金首と呼ばれる人種かもしれないし、名の売れている一部の精鋭かもしれない。
　誰であっても、与えれば与えられる。
　その仕組みは――言葉で表現しづらいが、善きもののように感じる。

　誰も特別ではなく、誰もが個性であること。

　メルンテーゼの、エンブリオのからくりに、感謝のような感慨のような、不思議な気持ちを覚える。
　明日からは、また、研究の為にあちらこちらと慌しく回ることになるのだが。
　すくなくとも、今はゆっくりとした時間を噛み締められる。それを感じながら、本のページをめくる。
　何度も読み返した文章の中ほどにある単語が、不意に目に飛び込む。

　――ひなぎくの丘の頂から、くちなしの隣を下りて、麦草の間を抜ける――

　目を閉じた。薄らと、感覚が浮かび上がる。暖かい日差し、背を押す風。自分の場合は。麦草を抜けて通る道は、水車小屋へのお使いに行く道だった。振り返ったその時の感覚を、何度も思い返す。記憶としての景色は鮮明だが、それよりも強く。
　ゆっくりと目を開くと、ここはやはり水辺へ続く途中の、野営のただ中で。過去もよく知らないなりに、仲間として馴染み深くなっていた彼らの姿があちこちに見える場所だった。膝の上で丸くなるのは、遊びつかれた小さな虎で、水車小屋は少なくとも見える所の何処にもない。
　ただ、穏やかで、安らかだ。

　もう少しだけ噛み締めたくて、目を閉じた。風は少し冷たく、かすかに元素の匂いがした。

遠くで鯨のなきごえがきこえる……