愛について考えるのは難しい。フロラとダイゴ、と互いを呼び合った異種族の男女を退けた今でも。
視覚ではとらえることのできないヤールの牙がフロラを引き裂いたその瞬間は、大理石の青年にもたしかに動揺が走ったかに思われた。けれど彼jはあらかじめ辿ることのできる凡庸な攻め手を放すことなく、やがて訪れる破滅を待つように淡々と拳を振るい続けた……大きな拳だった。けれどそれらは私を逸れ、手摺や壁を巻き込み、危ういところで直撃を損ない続けた。いつか庭にストゥーラを抛り続けたときに生じたのと同じ、天使の祝福がもたらす可能性の偏りだった。

天使の監視と干渉の下では、どうした力学も正常な統計を保つことができない。畢竟、物理学的な理法とは、物理以外のことわりが非在であるときにだけ、かろうじて近似値を保つことができるというくらいのものだからだ。肉体のうべなう物理と長いこと親しく共鳴したのだろうダイゴの拳法もまた、エンブリオの祝福に触れては半ば以上本来の実効を欠いていた。拳は私に何度届くとしても、そのたびごとに過去へと逆巻く時が多少の傷を治癒し、為されたはずの営みをまた無へと押し流していくのだった。

ヤールの闇に呑まれるその時まで、ダイゴの表情は悲痛でこそあれ覚悟もまたあるように思われた。振り下ろされる拳は添えられる言葉を少なに保っていたが、フロラを守り切ることのできなかった憤りや悲しみは感じられないこともなかった。

阻んでいた道を明け渡したダイゴの決断の、根本のところは疑うまでもなくフロラの負傷だった。血が流れてから時間が経ちすぎて、息のあるのかは怪しかったが、なすすべないほどの深手ではなかった。

ダイゴとフロラは新王側の番人であり、であるなら彼らの頭をたれるいくらかのイデオロギーは新王を養護してあるはずだった。ひとつの道を、ひとつの在り方を選びながら、自らの守っていた道を、思想を、理想を廃させるものは、彼らにとってはひとつの愛だった……愛と呼んでいいものかはわからねど、少なくとも、喪失への恐怖だった。


父は自らの思想や嗜好と母を天秤にかけ、ごく自然に母との契約結婚の破棄を選びとった。母もそれについて多くは語らなかった――恨んでいるともいないとも、愛がまだあるとももうないとも語らなかった。

癪に障ることだが、私にはダイゴのフロラをかばって道を開けるさまよりも、絶対に母のために道を開けるようなことはなかっただろう父の姿のほうが、素直に共感をしやすいものがある。愛は思想に敗北するべきではなく、思想を愛に従わせるべきではない。どんな愛も戦いを終える役にはたたないし、愛では革命者は止まらない。

私自身の身の上を振り返れば、社交や革命のさなかにそれなりの、しかしその時時には真剣な愛が生まれたこともないではなかった。けれどそれらはいつの時も、私が愛よりも革命を選ぶがために破綻し、あるいは消えて終わった。

私はひとつの火を手の中に握りしめていた。私の手はその火のために黒く焼け焦げ、異臭を放ち、骨が見えていた。そんな火を握るのはやめろと言われたいわけではなかった。その火をともに握ろうと言われたいわけでもなかった。ではなにを求めたか？　それはわからない。人に寄り添いながら愛を夢みたのだから、私にもなにかしらの欲望はあったのだろう。生まれてほしかった関係性のないこともなかったのだろう。ただ、私には自らの感情がうまく切り分けられず、言語化できなかった。わかっているのは私の手の中の火の熱さばかりだった。

私は他者に期待しすぎている。それはいつも思う。依存しすぎている、それとも、甘えすぎている。やがて私の持つ火が自ら近くにいることを望まないこともなかったものたちを焼き、追い払い、斥けるとはいえ。

紅玉は杖を受け取る。