『ぱぱ、まま』

　小さな私が泣いている。
　宛がわれたばかりの自分の部屋が怖くなって抜け出して、震える脚で階段をとぼとぼ下り、リビングの灯りに気付いて駆け出した。
　
　そこまで眺めて、これが夢だとぼんやりと認識した。

『どうしたの、アリシア』

　驚いた顔のお母さんが、小さな私の前にしゃがみこんだ。
　ぐすぐすと泣きじゃくる私の頭を優しく撫でて、顔を覗き込む。
　お父さんもお母さんの横に立って、私を見下ろしている。

『こわいゆめ、みたの、うさぎさん、こわいの』
『あらあら、怖い夢見ちゃったのね。もう大丈夫よ、パパもママも居るから』

　ね、とお母さんがお父さんを見上げた。
　視線を受けて頷いたお父さんは、その大きな手で私を抱き上げる。
　今度はお父さんが私の頭をそっと撫でて、安心した私は更に涙をぽろぽろ零した。

『そうね、今日は三人で寝ましょうか。ね、いいでしょ、パパ』
『パパッて、お前ね……、……あァ、ほら、アリシア、一緒に寝よう』

　こくこく頷いた私は、ぎゅうとお父さんに抱きついた。
　にっこり微笑んだお母さんが、私の濡れた頬に触れる。

『――アリシアが怖いときは、いつでもママとパパが居るからね』

　だから安心していいのよ。

　ああ、そうだ。
　大好きな母のその言葉を、何時だって私は信じてた。

**

　目蓋を上げる。映るのは見慣れてしまった木製の天井。
　空に浮かぶ巨大な家。此処での私の居場所。

「怖い夢でも見たのか」

　降りかかってきた聞き慣れた声。ふわふわと宙に浮いていたのは小さな身体に一本の角を持ったユニコーンの彼。

「……違う」
「じゃあなんで泣いてんだ」
「泣いて、」

　ない。
　そう言い切ろうとして、出来なかった。指先で頬に触れると確かにそこが濡れていたから。
　騒がしいエティやピユの声は聞こえない。よく朝に散歩にふらふらと出かけるので、今日もそうなのだろう。
　静かな朝。台所で野菜を切る音だとか、朝のテレビのニュースの声だとか、そんなものは一切聞こえない、静かな朝だ。

「……夢を、見た」
「白い女の子の？」
「ううん、お父さんとお母さんの」

　白い女の子は、あの日夢に見てから一度も出会っていない。もう一度だけでいいから喋りたいと、ぽつりとそんな言葉を零した相手が確かゼスだった。
　そういえば今日で此処に来て何日目になるのだろう。分からない。数えるのは、元から怖くて止めていた。
　エティを追いかけて、ルカとシズを巻き込んで、一揆なんていうものに参加して、戦って、戦って、戦って。
　
「恋しいのか」

　尋ねられたその問いに、言葉が詰まった。
　そもそも恋しいなんて感情はよくわからなかった。二人はいつでも傍に居たし、帰ってきたらお母さんがおかえりと言ってくれて、そして私がお父さんにおかえりと言って。
　でも、胸を締め付けるこの感情は、流した涙のその理由は、おそらく。

「わからない、でも、」
「……」
「…………なんでも、ない」

　感情を言葉にしようとした途端、なるべく触れまいと蓋をしていた感情が溢れ出して、またぽたぽたと涙が零れてきた。
　胸が苦しい。
　駄目だ、この感情は言葉にしてしまっては、駄目だ。

「アリシア」
「……だい、じょぶ。今は泣いてる場合じゃないんだ、大丈夫。平気だよ」

　ごしごしと涙を強引に服で拭って、身体を起こした。

　――途端、ぐるりと視界が回った。否、回るような感覚がした。
　あ、気持ち悪い。

「……おい、アリシア」
「…………大丈夫、平気」

　私の様子がおかしいことに彼は直ぐ気付いた。気遣うような表情を浮かべて、私の前までふわり移動して来る。
　身体を寝かせている間は気付かなかったが、頭が重くて、ふわふわと何もしていなくても視界が揺れるこの感覚は、風邪に似ている。
　といっても咳が出ているわけでも喉が痛いわけでもない。疲れが溜まっているのだろうか。

「調子が悪いなら休めよ」
「今日は、コトカたちと山に行くんだ。敵も強いし、休むわけにはいかないし、……そんな、休んでる時間があるなら」

　早く、元の世界に帰る為の術を探した方がいい。
　制止の声も聞かないで布団を抜け出した。立ち上がった瞬間眩暈が身体を襲ったが、少しすれば収まった。いける、大丈夫。

「……無理してまでやることかよ」
「当たり前でしょ、私だけじゃない、ルカもシズも巻き込んだんだから」

　ぽつりと呟いた言葉は、今まで何度思ってきたかわからない。
　私だけだったらまだ良かった。けれど私の軽率な行為で二人を巻き込んでしまったのだ。
　だから、二人の為にも頑張らなくては。

「早く、二人を帰さなくちゃ」

　その為に。

　暫くお互い何も喋らなかった。沈黙が続く。少しだけ重い空気が息苦しいが、構ってはいられない。
　身支度を整えて、体調が悪いせいかいつもより重く感じられる愛銃を手に取って、それから。

「――そうじゃねェだろ」

　突然の言葉だった。
　その言葉が何を指しているのかわからなくて、振り返って彼を見る。
　彼はいつも難しい顔をしている。機嫌が悪そうだし、勿論笑う時もあるけれど、しかし心の内は読みにくい。
　そんな彼が真っ直ぐに私を見つめている。

「それが理由じゃないだろ」
「……どういう」
「ホントは、」

　不意に本能が、その続きを聞くことを嫌がった。
　勿論耳を塞ぐなんてことはしなかったけれど、でも。
　その続きは言わないでって、どうして、か。

「ホントは、お前が帰りたくて頑張ってるだけだろ？」

　――瞬間、言葉が心臓を打ち抜いた。

「……――ッ、ちが」　
「そうならそうで別にいいじゃねえか、なんで否定する必要がある」

　彼が私を真っ直ぐ見つめる。
　赤い赤い瞳。けれど、エティのとは違う。ピユのものとも違う。どこまでも真っ直ぐで、歪みがない。
　その赤が、私を捕らえて離さない。

「帰りたくて頑張るのは普通のことだろ、親に会いたいのも当然のことだろ。それがお前の理由でもいいじゃねえか」
「……、……違う」

　全部真実だ。全部願ってることだ。
　なら言ってしまえばいいって、素直にそう言えばいいんだって、彼の言葉は正しいんだろう。
　けれど、でも、それを表に出すことを、それが自分が頑張る理由とすることは、なんだか、なんだかとても。

「なんでその感情を受け止めないんだ」
「わけ、わかんな」
「――無理する建前に、二人を使う理由がどこにある」
「ッ――建前なんかじゃない！！」

　どうして、自分はこんなに声を荒げているのだろう。
　息が上手く出来ない、頭がぼんやりする、暑くもないのに伝う汗、荒い息に上下する肩。

　――子供らしくなっても、いいんじゃないか。

　不意に思い出した言葉が、自分の心に重く圧し掛かる。　

「違う、違うよ、本当に、本当に私は二人が帰したくて」
「ほら、そうやってまた抑え込んだ」
「〜〜ッ、ちが……！」
「アリシア」
「――だから、やめろよ、もうッ！！」

　駄目だ、もう、もう耐えられない。
　赤を振り切って視線を逸らす。ホルスターに銃を差し込み、兎も身に着けて、逃げるようにドアへと駆け出した。
　そのままノブを捻って廊下へと出る。よくわからない感情に身を任せて、乱暴に扉を閉めた。
　息は荒いままだ、伝う汗もそのまま、頭もやっぱり重い、視界はふわふわしていて、気持ち悪くて、その場に蹲りそうになって、

「……アリシア？　ど、どうしたんだ？」

　声が聞こえて、目を瞠った。
　ルカがそこに居た。朝食でも食べに行くつもりだったのかもしれない。きちんともう身支度は整っていて、いや、出発の時間を考えれば、それは当たり前の話ではあるけれど。

「る、か」
「すっげー勢いでドア閉めたけど、どうしたんだ？　な、なんか嫌なことでもあった？」
「……ううん、なんでも」

　心配そうに顔を覗き込もうとする彼の眼から顔を逸らす。先ほどのやり取りのせいだ。真っ直ぐに彼を見ることが出来ない。
　違うなんて言ってたくせに、わけのわからない罪悪感が自分の胸を満たす。

「でも、顔色悪いし、アリシア、具合悪いんじゃ」
「ルカ」

　両手を伸ばした。彼の胸に触れる。
　そのまま力を込めて、押して、まるで引き剥がすみたいに。

「……今日は、山に行くんだよ。私は平気だから、自分の心配して」

　ちらりと彼の顔を見上げると、自分の行為に、引き離されたその距離に、驚いたように目を瞠っていて。
　その表情に、胸がぎゅっと締め付けられて、ああ、駄目だ。
　また、耐えられない。

「……ごめん、ね」

　だから、何も言わない彼から逃げるように、その場から駆け出した。

努めて、普段通りだ。
ミハウに、コトカに笑って声を掛け、山道を登る、一番前を軽い足取りで進む。
一方、山を進むと分かっていて、それでも共に行動することを選んだシズも、普段通りだ。

時折、一番後ろを進むアリシアを振り返りながら。
彼女が此方を見ないように努めていることに気付けば、前を向き直る。
ポケットから出し掛けた手を、何でも無いように押し込んで、進む。

いつものように、挨拶をして。
以前とは違う三人の雰囲気に、ミハウは一度、戸惑うように表情を曇らせ。

その様に、イェジも肩の上で不思議そうに首を捻って。

いつものように、注意の言葉をかけることくらいしか、出来なかった。

　ちらりと、アリシアたちを見る。
　どこか感じる、違和感。

　どことなく違和感を覚えつつも、山を登る。
　普段よりも多くない、会話。

　誰に向けてか、そう呼びかけた時。
　目の前に立ちはだかるは、巨大な体躯を持つモンスター。
　今は、お喋りをしている場合では無いようだ。

　ウルヘアは敵を威嚇するように、大きく羽ばたいた。

　　　　　　　　　きみ達は下がって。 最初だけ、僕がきみ達を守るよ。 ）

──何処からか 声が聞こえる。
くすんだ青と白が溶けるように入り混じり、やがてそれは、ウサギの形を成すだろう。

影のような幻は、今にも消えそうに風に揺らいだ。

武器を下ろして、周りを見。脅威がないのを確認して、息をつき。

ちいさく、ちいさく、呟いた。

　仲間の無事を確認して、それから、

　何か言い出そうとして、結局は言えなかった。

いつも、お世話になっているから、と付け足して。

取っ手と蓋がついた、持ち運びの出来る容器を差し出す。