朝の日差しを感じ、ユーグは目を開けた。
ハロウィーンの一夜、それぞれが用意した菓子（仮装していたからか、ユーグにもいくつかの配当があった）を肴に一人で酒を飲んでいたせいか、いつもよりも目覚めは重たい。花屋敷の面子で酒の席に付き合うような者はどれだけいるだろうか、と思う。未成年の方が多い上、酒を飲みそうな者は寝起きの頭では思いつかなかった。
酒の席にツグミを付き合わせることはなかった。ユーグが杯を傾けるときは、いつも一人だ。
さてそのツグミを起こそう、と傍らで眠っているであろうツグミを見ると、ユーグは目覚めの微睡んだ思考をいくらか正常まで引き戻すこととなった。
ツグミは起き上がってこそいなかったが、その目は開けられていた。その瞳を見れば、ユーグよりも先に目覚めていたことがわかる。
「ツグミ。起きていたのか」
「………………………………うん」
寝ころんだ状態のまま、ツグミは答えた。答えた後に首だけを横に向けユーグの顔を見つめ返す。細い黒髪が零れ落ち、ツグミの顔はいささか隠れてしまう。リネンを擦る音がした。
ツグミが先に起きているというのは珍しいことで、ユーグが一声かけて起こすという光景が常であった。ユーグはまだセットしていない頭を適当にかき回すと、思考を覚醒させるべくベッドから起き上がる。ツグミに一声、起きなさいと残して。

顔を洗い、髪を整え、手早く着替えはじめる。着替えてから髪を整えると、服に毛がつくことをユーグは嫌っていた。ユーグの身支度はそのひとつひとつに無駄がない。ネクタイを締めながらツグミを見やると、いつもゆるゆると着替えだしている筈がベッドに腰掛けたまま微動だにしていなかった。
「ツグミ？」
「………………………………」
近づいても目線を合わせようとしないので、屈んでその顔を見上げるような形にする。
その目には感情は籠っていなかったが、纏う空気にユーグは微かに憂いを感じ取る。どうした、と尋ねれば、言葉こそ発することはなかったが、口を僅かに開いた。
「………………………………」
回答に相応しい事実があるとユーグはすぐに理解した。それが恐らくは、あまり言いたくない、隠しておきたい事実であることも。ツグミは自主性というべきものは穴が開いたように喪失していたが、根幹となる感情を失ったわけではない。それを発現する方法は無いものだから、ひどく薄いものであることに違いは無かった。普段はユーグの問いかけに素直に答えるが、その言動に淀みがある場合は答えが見つからないか、迷っているかのどれかだった。言うべきかどうか、迷っているのだ。
「具合が悪いのか？」
子をあやすような形で、両手をそれぞれ握りながらたずねると、左手に反応があった。触れた瞬間に返す、反射のような動き。
ユーグは眉根を少し寄せると触れた手を離した。そのまま反応を見ていると、微かに左腕が痙攣していることが分かる。やや険しい顔つきで、ワイシャツの袖を肘までまくり上げた。とくにこれといって外傷は見当たらない。
「どこが痛むんだ」
「……………………………」
いつもより厳しい声に、ツグミは残された右腕で左肩を掴んだ。左肩――ユーグの心が少し乱される。
ボタンをいくつか外し、顔と同じように白い肌がいくらか露出される。その体のどこにも――左肩にも、外傷は見当たらなかった。何かが特別に変わっている様子もなかった。
左肩には、出会った時と変わらず、精巧な刺青が残されている。
鳥籠に茨が伝っているだけのシンプルなデザインで、黒色だけを使った刺青だったが、素人目に見てもそれを施した腕は大したものに違いなかった。それほどに精巧で美しく、ツグミの白すぎる肌にあって過度に主張することはないものだった。
勿論、ユーグが望んで入れたものではなかった。彼はツグミの体を傷つけることを何よりも嫌っていたからだ。
ユーグと出会う前から、それはツグミの体に刻まれていた。それが誰の手によるものなのか、何の目的なのか、ユーグの知るところではなかった。後者については、ツグミですら知っているか怪しいほどだった。
ツグミの体に刻まれていながら、その体の全てを捉えるかのような鳥籠の意匠が、少なくともユーグは好きではなかった。
ツグミの過去を露骨に匂わせておきながらも、その実態を知ることはユーグにとって難しかったし、知ったところでその刺青に向ける敵意は変わらず、むしろ増すに決まっていた。
とにかく、その刺青のある左肩が痛むというツグミの告白に、ユーグがしてやれる術は非常に少なかった。途中で放り投げていたネクタイを締めるという過程を済ませると、上着を着るのもそこそこにドアへ向かう。
「待っていなさい。痛み止めがないか旦那様に聞いてこよう」


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待っていなさい、と言われて素直に従うのがツグミだった。彼はユーグに対しては彼なりの基準で、一定の範囲で特別扱いをしていた。世話をされているという感覚があるのかもしれなかった。質問をされたら答えられる範囲で答えたし、言いつけには従った。他の誰も――花屋敷の人間でも、それを行わせる者はユーグをおいて他に居なかった。
しかしながら、人間の範疇を超えたところに位置するエンブリオは別だった。
「……………………………………」
ツグミがふいに窓へと視線を移した。窓の外では小鳥が囀り、日差しが照り付けはじめていた。ツグミの瞳はその光を享受するように輝きはじめる。いつもの茶色ではなく、彼が能力を使ったときに見せる黄色に輝く。五感を強化するという能力を使うことは、公にユーグが花屋敷の面々に話したことは一度もなかった。おおよそ、気づいている者があったにせよ。
ツグミは痛みを引かせるためにも触覚を遮断し（手に触れられるだけで痛かったのだから、シャツが擦れ合う度に疼痛を感じていたに違いなかった）その分を聴覚へと集中させていた。感覚を強化するのではなく、五感の配分を変え、遮断し、余剰分を上乗せするような形で強化してゆくのがツグミの能力だった。
聴覚を強化し、聞いているのは人ならざる者の声。

「……………………………………うん…………わかった」

誰に向けたものでもなく彼はそう呟くと、音も立てずに部屋から抜け出していた。


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屋敷の庭を手入れする人物となれば、真っ先に挙がる人物がセロだった。
日差しが強くなる前に水やりを済ませると、百日紅の許しを得て作ったのだろう、薬草畑の手入れをしていた。手元は迷いがなく、収穫するべきものを手早く摘み取っている。
そのセロの目の前を、ツグミはふらふらと所在無く歩いていた。セロはそれを一瞥すると、手元の作業に戻った。恐らくは寝て起きてすぐの恰好であった（それでも、いつもと大差はなかったが）上に、ワイシャツのボタンは半分以上外れており、おまけに裸足であるといういささか以上に常軌を逸脱した格好ではあったが、それでも彼は面倒事に巻き込まれるのを嫌った。屋敷内であれば何かが起こる心配もそうない。
通りに面した場所に立っている花屋敷だったが、いくつかある裏口のひとつはひどく森と隣接していた。屋敷の敷地が広すぎることもあるが、一揆をするにあたって形成された住民の所在地は酷く雑多で、通りとは言えども森や水辺に隣接していた。侵攻しやすい場所に作られた、交通の要所ともいえるべき通りであった。ともかく、その屋敷にある裏口を抜けて数分歩けばそこは鬱蒼とした森への入り口に繋がる。

その裏口に頼りない足取りだが確実に近づいていることもセロは見抜いていた。何も、することはなかったけれど。
一つ奇妙に思うことがあるならば、ツグミの視線はずっと上向きで、自分の意思で歩みを進めている者にしては不自然だと感じることぐらいだろうか。手元は狂うことなく薬草の傷んだところをむしり取っていた。
あのまま森へ行こうものならものの数分で殺されてしまうことは容易に想像できた。ただでさえ、ひ弱そうな彼は自分の身を守る術を持っていないように見えるというのに。
ツグミが通り過ぎてしばらく、裏口の扉に手をかける音が聞こえた時に、ようやくセロはその腰を上げた。
素早く確固たる足取りで、ツグミが扉の向こうに姿を消すよりも先にその腕を掴むに至った。
「森に行くのか。……ひとりでは死ぬよ」
短い問いに、ツグミは何も反応を返さなかった。
そうなることが十分に予想出来ていたセロだったが、やや強引にツグミの腕を引き、扉の向こうに半分ほど進んでいた足取りを引き戻した。そのままもう片方の手で扉を閉める。森へ行く手だてが断たれたといえ、ツグミの表情に変化は見られないようにセロは感じた。
さてこれをどうしたものか、セロが考えあぐねている場所にもう一人の人物がやってくる。扇子を片手にした百日紅だった。流石に屋敷内でいつもの輿を乗り回しているようではなく、徒歩であったが。
「中々面白いものが見れたね」
面白い、の一言で今までの状況を切り捨てる。セロはこれ幸いと、あとの始末を百日紅に任せるつもりでツグミの手を離した。
「おやおや、どうしたんだいツグミちゃん。こんな恰好で出歩いていては悪い狼に食べられてしまうよ」
半分ほど外れたボタンを留めてやりながら、百日紅は性質の悪い軽口を叩いてみせた。
ずっと見ていたのならば自分より早く止めにかかって欲しい、そういう意思を持ってセロは百日紅を一瞥した。百日紅は扇子で口元を隠しながら小さく笑って見せた。
「庭には君が居るだろうと思っていたからね。どうするかなと思って」
「……」
百日紅はセロの相手もそこそこに、ツグミに向き直る。
「森に行きたかったみたいだね。何かあるのかな」
「………………………………………」
大方の予想通り、ツグミは何も発することはなかった。百日紅は子供にするように頭を撫でながら続けた。
「そんなに森が気になるのならば、僕から行先に進言してあげよう。僕が言えば、ユーグも従ってくれるだろうしね」
地位のあるものへの敬意であるのか、佐久呂にはともかく百日紅へのユーグの接し方は慇懃であったし、行動も弁えていた。
それをあっさり逆手にとると宣言しているようなものだったが、近いうちに森に行けるよ、と言い含めても、ツグミが森の方角を眺めることを止めることはなかった。
「ツグミ！」
青い顔をしたユーグが小走りでやって来ると、百日紅は「保護者、って感じだね」と一言添えた。
「旦那様、セロ。これは一体……」
完全に作業に戻るタイミングを逃したセロが、若干うんざりした顔持ちをした。
百日紅は全容を説明するよりも先に、確定的な言葉を口にする。
「ツグミちゃんは森に行きたいそうだよ。次の行先に含めておいてあげるから、行っておいで」
「森……」
裸足で出歩いていたツグミに驚いていたユーグが発した言葉は苦々しかった。森には良い思い出がない。
光り輝く小鳥の姿を視認したとき、それがエンブリオであると分かったとき、ツグミがそれを受け入れることで一時的に錯乱するに至ったとき――情景が思い起こされて、ユーグは顔を歪めた。

――もしかしたら、エンブリオが呼んでいるのか。
有体な想像が頭に浮かび、ユーグは目を閉じてそれを追い払った。彼自身がエンブリオを信じていないというのに、どうしてそう思えるのだろうか。
「ツグミ。腕はまだ痛むのか」
ユーグは当面の問題を議題にあげた。腕、と百日紅がいささか深刻な顔になる。
「…………………………………うん……いたい……」
「それは大変だね。今すぐ薬を持ってこさせよう」
百日紅の一声で、その場は散開するに至った。
ユーグは裸足で歩いていたツグミを抱きかかえながら思考を巡らせていた。
非常に流されやすい性質を持っているツグミであったので、自分の意思ではなく第三者によって連れ回された可能性が高かった。
自分に感知できない何かが、ツグミをどこかへ誘い、絡めとっていく。
ユーグはそれが非常に不愉快で、唇を噛んだ。

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屋敷内に連れ戻される間も、ツグミは森の方角を眺めていた。
薄く唇が開き、小さく漏らした言葉は約束を違えた謝罪のようでもあり、怒りを宥めているようでもあり、また同じくして深い悲しみに包まれているようでもあった。
その言葉の意味するところは、誰かの名前だったに違いなかった。

「…………………………………リン…………」

がんばろーねー！と大きく手を振っている