ただ特段、何もないのかと思われた。少なくとも、同行者たちと別れて次の道行きを考えるまでは、何事も起こってはいなかった。

従えた龍は長い身体を、どういう原理か空に横たえながらゆるゆるとつかず離れずの距離を飛んでいたし、人形はいつも通り頭の上に陣取って動くことはない。何故かリュックの中を固定ポジションにしてしまったカッパは、リュックからそこだけが出た頭をデビルとアルラウネに狙われて弱っていた。
前には自分が見つけたはずの、兵舎らしき建物への抜け道が見つからなかったら連絡が欲しい。前々日に別れた面子とそう約束を交わしていた。
どうなったか、と思い返しながら、歩を進めていた。

何か落としたかと、音が聞こえた時にはまずそう思った。重量のあるものが地面とぶつかる、どさりという音。振り返ればそこに落ちていたのは。
先に契約を果たしたばかりの、清流色の龍だった。

ぴくりとも動かないその様子は見るからにただごとでなく、しかし打つ手も原因もすぐには思い当たらない。何でも良いからすぐに特定し、何かの手立てを打たなければならないということだけは理解できるというのに。
ネクターは他のエンブリオと変わらず捧げたはずだ。不足や質の違いでもあったのかと荷の中の花を近づけてみても、倒れ伏す龍からは何の反応も得られず。天使も妖精もいない以上回復の力を持つエンブリオはなく、同じエンブリオに癒しを請うという手もとれない。一抹の願いを込めたらしいカッパが差し出したキュウリにもまったく反応はなかった。
だから取った対応は、ひどく陳腐な代物で。その身体に手をかけてがくがく揺するくらいしか、思い付くことがなかった。体色からイメージできるのと同じ、沢水の刺すような冷たさがそのまま手に感じられる。
揺すってなんとかなることなのか、なんとかならない場合の見通しもなく。

「……ああ、なに、そこまでする必要もない」

耳に入ったのは聞き慣れた声で、しかしどこかに違和感がある。それが聞こえるべき場所から聞こえていない。
すなわち、頭の中からではなく。

「やはり多少の無茶ではあったかね。しかし本当に許されるとは思っていなかったよ」

すると滑らかな感触が手の内から抜け出し、ゆらと空を舞う。先まで動きを止めていた龍が、何事も無かったかのようにこちらを見下ろす。敵として相対した時の達観を宿したものとは違う瞳で。

「あんたか。……何をやったの？」
「なに。少しばかり入り込むのに苦労してね。結局、これの流れを止めざるを得なかった」
「流れ？　……確かに水っぽくはあるけど」
「そうではないな。魔力の流れとでも称するのが、一番早いか」

くるりと身体を緩く巻き、思案する体でしばらく龍は言葉を止めた。手持ち無沙汰に周囲を眺めれば、他のエンブリオたちが龍を眺める視線に、一様に同じものが混じっていることに気付く。
恐れだ。何か得体の知れないものを見るような、一線を引きその内側へは決して入らせまいとする姿勢を、程度は違えど同じように持っている。
振り返れば、その様子を同じように見ていたらしい龍はゆっくりと口を開く。

「やはり分かるかね」
「……だから、どういうこと？」
「魔力の流れは、人間にとっての血流のようなものだ。おまえ、脈も体温もないような者が歩いていればどうする？」
「……気づき次第、ゾンビ認定だね」
「私がやったのはそういうことだよ、端的に言えばな」

やはり好かれないね、と、声色だけで龍が笑う。
当然だよ、と自分が返す。
歩みは止まらない。これしきで止まるような足は持っていないし、特段支障はないだろう。これが通常のエンブリオと変わらぬ力を保つ限りにおいて。
期待しているのは、力それきりなのだから。

使えそうなものと見るや、素早く取って懐へ入れてしまう。