意識が、朦朧としている。小さなエンブリオ達に先導を任せて、自分は意識を保つ事に集中し、がむしゃらに足を動かした。ただただ歩いて歩き続けて、漸く水の匂いに触れた、その瞬間。急に疲労と激痛が襲って来て。くそ、なんて小さく零して、地面にへたり込む。
　――そうして、どれくらい経ったのだろう。傷の手当てに勤しむラウロのうすぼんやりとした光だけを頼りに、何とか意識を保っていた。
「……ッヴェス、大丈夫！？」
　聞き覚えのある声に、薄っすら目を開く。銀の髪、紅の眼。“約束”を交わした彼が、傷だらけで立っていた。どうにか彼を安心させようと、力のない笑みを浮かべる。
「この、声……レンガ、かな……？　大丈夫、ラウロがいる、からね……」
　これは答えになっているのだろうか。まだ血の巡りも悪く、上手く頭が働かない。言語野に、著しいダメージ。小さなエンブリオの頭を指で撫でて、吐息を零す。
　視界はまだぼやけていて、はっきりとしない。
「大丈夫には、見えないけど」
　彼の手が、己の背を撫でる。ローブ越しでも確かに伝わる人の手の温もり。
「嗚呼、不便。この、世界じゃ。“僕”の、術は、使えない。
　……ごめんね、待ち合わせ、随分と、遅れて」
　レンガの小さな呟きが聞こえて。続け様、思わず自分もぽつりと呟く。捨てたいと思ったものに縋る自分が滑稽で、ひっそりと苦笑いを零した。背を撫でる手に、安堵の息を吐く。何を言っているんだろう、自分は。苦笑いはそのままに、謝罪を付け足した。
「僕だって、道に迷っちゃってたし」
　安堵の息を吐いた彼を見やり、呼吸。――傷も殆ど癒えた。表面上とは言え、それだけでも大分、精神的には落ち着きを取り戻せる。
「お互い、いつもの力が使えないと不便だね」
「そうだね……」
　呟きは聞こえていたようで。笑みを浮かべたまま同意を告げる。不安げな表情で見上げていた小さなエンブリオたちの頭を優しく、撫でながら。
「レンガも道に迷っていたんだ？」
　彼は自分なんかよりも余程、しっかりしているように見えたから、何だかおかしくなってしまって思わずくすりと笑う。
「そう、まっすぐ水辺に来る予定だったのに、いつのまにか平原にいて」
　何か嫌なものでも思い出したのだろうか、吐く息が随分と重たい。……おや、今、平原と彼は言っていた、ような。
「……あれ、レンガも平原に？」
　もしや、あの重たい吐息は。はたと動きを止めて、何かを察したような顔をする。思わず私もだよ、と苦笑いを返して、ぐっと腕を伸ばした。ふと彼の全身を見てみる。――ああ、通りで怪我の具合が酷いわけだ。
　君の傷は平気？　と、腕を伸ばしたまま訊ねると、
「大丈夫、僕は慣れてるから」
　にこり、と。笑みを浮かべて答えた。……慣れてる、ねぇ。
「慣れてる、とは言ってもね。支障が出ると大変でしょ？」
　特に詮索はしない。ただ、ラウロ、と小さなエンブリオに声をかける。癒しの術を目に見える彼の傷にかけるように、と。察しのいいラウロはふわりと浮かび、小さな手を傷口に翳す。
「ありがとう、わざわざ」
　私の治癒で要領を得たのか、レンガの傷は自分の時よりも早いスピードで治っていく。一瞬こちらを見やって、どうです？　と問いたげな顔に笑みを返した。
　ふと、フローロが宙を見つめている事に気付いて、視線を向ける。ふよふよとレンガの周辺で浮いていた彼のと思しきエンブリオがじっと、こちらを見つめていた。フローロは、彼のエンブリオの緑を、不思議そうに見上げている。
「いやぁ……近接は嫌いなんだけどね」
　あんなのは一戦だけでいいってのに逃げ損なっちゃって、と付け足して。同じ想像に行き当たったのであろう。私も何だか可笑しくなって、笑い声を上げた。そして、彼の言葉を笑顔で反芻する。
「ラウロ、ありがとうだって」
　その言葉に、小さなエンジェルは顔をあげると、『どういたしましてです！』と、どこか得意気に笑った。
「僕もまあ、近接は苦手だけど」
　示された二丁のダガーナイフ。魔杖よりは、とも思うが矢張り近接向きの武器とは言い難い。
「ダガーナイフ、か。ほら、私はこれだから」
　――蝙蝠をモチーフに作られた、私だけの魔杖。このローブと杖は、“あちら”から“こちら”へ来る時。かの魔女が餞別として持たせてくれたものだった。
『当面は此れで保つでしょう、　　　　　』
　――ああ、そういえば。あの名前で呼んで貰ったのは、あの魔女で最後だったっけ。
　この杖の、どこか彼女らしい、少し華美な装飾を私はとても気に入っている。――意識を、今に戻す。
「僕たち二人とも、肉弾戦は向いてないんだね」
「ああ、そうみたい」
　敵の気配が感じられないのも大きいのだろう。穏やかな雰囲気の中、和やかな会話が続く。
　そんな穏やかな雰囲気の中でも、彼のエンブリオはじっと、こちらの小さなエンブリオ達を見つめている。
「ほら、そんな目で見てたら失礼でしょ」
『…………』
　レンガに首根っこを掴まれ、咎めるような口調で叱られても、彼のエンブリオは変わらず、私のエンブリオを見つめ続けていた。
　小さなエンブリオ達は、こてりと首を傾げつつも（何故見つめられているのか、よくわかっていない様子。かわいい。）気にした風もなく、彼のエンブリオに笑いかけている。
「……君のエンブリオは、不思議な雰囲気だね？」
　直感、ではあるが。きっとこの子達とは違うのだろう、と思って、レンガに問う。
「彼は、まあ。ここに来る前から付き合いがあるから」
　フローロとラウロが笑いかけても、彼のエンブリオの表情はぴくりともしていない。――コロコロと表情が変わる事に興味でも持ったのだろうか。
　疑問に答えた声に、ああそれで。と心中で頷く。彼らのやりとりは、お互いをよく知っているからこそのそれに見えていたから。
「ああ、そうなんだ。古い知り合いなんだね」
『無愛想なのね！』
『ぶあいしょ？』
　ラウロとフローロはそれでも気にした風はなく。主が元気になったというのもあるのだろう、上機嫌で笑っている。
　不躾だろうとは思ったのだが。意図せず、目を細めて、彼のエンブリオを見つめる。
『無愛想、で、……悪かった、な』
　直後、彼のエンブリオがぼそりと低く呟く。どこか憮然とした面持ちに見て取れた。
『ごめなしゃい』
『気に障ったかしら、ごめんなさい！』
　小さなエンブリオ達の謝罪を聞いて、少しだけ口元を緩める。定位置である私の腕に抱えられてご満悦な二人の頭を弱く小突いて。
「ごめんなさい、レンガの古き知人さん。この子達に悪気は無いんだ」
　この子らにしてみれば、失礼を働いたつもりは無いのだろうが、恐らく“彼”の気には障った筈だ。主人としても、きちんと謝罪を述べる。
『…………ローク、だ。構わん、いつも、の、こと』
「拗ねてるだけだからいいんだよ、気にしないで」
　レンガが指の腹で、小さなエンブリオ達の頭を撫でて言った言葉に、くすりと笑い声を立てる。
『ろぉく？』
『ロークよ、フローロ！』
　腕の中できゃっきゃとはしゃぐエンブリオ達を諌めながら、私はロークに笑顔を向けた。
「君には自己紹介していなかったよね。私はヴェスペールト、ヴェスで構わないよ。宜しくね」
　小さな頷きを確認し、こちらも頷く。続けて、口を開き、
「……よし、少しでも進んでおこっか。」
　レンガは平気？　と続けて、視線を彼に向け、立ち上がる。僅かな痛みはあるものの、動けない程ではない。
　レンガは危なげなく立ち上がった私を見下ろして、しかと頷いた。
「そうだね、進もうか。――僕は平気だよ。君より丈夫な自信はある」
「そう？　それなら進もうか」
　ぽん、と先程まで背を撫でていた手の平が頭に乗せられた。あたたかい、と口許を綻ばせる。
「次はどうなるかな」
「二人なら……何とかなるんじゃない？」
　ふと、思い出す。二人なら、なんて。私はまるで、あいつみたいな事を言うんだな。――他人事のように。


　――フラッシュバック。
『一人より二人！　……一匹だとか余計なツッコミ入れンじゃねーぞ』
　でもやっぱり、君は一匹と数えるべきだろう？　猫なんだし。
『うるせェ！　おら、さっさと行くぞ、　　　　　！！』
　うるさいなぁ、怒鳴らなくても聞こえてるよ、ロジェ。
『俺に着いて来い！』
　僕の歩幅の方が大きいよ、ロジェ。
　――でも、君の背は誰よりも大きかったよ、ロマンジェーレ。

かけられた言葉にきょとん、と首を傾げる。
それから少し気恥ずかしそうに笑んで。

尋ねた後に相手の様子にまた首を傾げ、それからじい、と見つめて言葉を静かに待つ。
瞬き一つ、二つ。それから少し嬉しげに笑って。