「……ッヴェス、大丈夫！？」

　ブランチマンから何とか逃れ、今度こそ約束の水辺に辿り着く。見えてきた、苦しげに目を閉じて息をつく知った顔の彼女に駆け寄る。
　僕の声に反応して、彼女はうっすらと目を開いた。へにゃり、相貌を崩して彼女は笑う。

「この、声……レンガ、かな……？　大丈夫、ラウロがいる、からね……」

　小さなエンブリオの頭を指で撫でてやりながら苦しげな息をつく彼女。その背に手を回す。僕だって重傷には変わりない、けれど痛みというものには慣れている。身体を苛むものを、無いものとして扱う術を心得ている。
　苦しげな彼女の息を落ち着かせるように、ゆっくりと、背に回した手を上下させることを繰り返す。

「大丈夫には、見えないけど」

　僕が今「ここ」で使える力としてある、「ローク」も「漣」も、傷を癒す力は持ち合わせていない。
　自身の無力を憎むのはずいぶんと久しぶりだ。唇を噛む。
　――いつもなら。いつもならば、傷を残すということさえしないのに。
　背を撫でて落ち着いてきたらしいヴェスが、息をつきながら苦笑を浮かべた。

「嗚呼、不便。この、世界じゃ。“僕”の、術は、使えない。
　ごめんね、待ち合わせ、随分と、遅れて」
「僕だって、道に迷っちゃってたし」

　ラウロがじわじわと傷を癒して、表面上はほぼ元に戻った。淡く微笑みながら、こちらも安堵の息をつく。
　「僕の術」という言葉から、彼女もまた力をセーブされているのだと察する。

「お互い、いつもの力が使えないと不便だね」
「そうだね……」

　穏やかに背を撫でる手は止めずにぽつりと呟くと、同意の言葉が返った。ヴェスは、周りでふわふわと不安げにしている自身のエンブリオたちを撫でながら、ふとくすりと笑った。

「レンガも道に迷っていたんだ？」
「そう、まっすぐ水辺に来る予定だったのに、いつのまにか平原にいて」

　ぎらりと不吉に光る高枝ばさみを思い出して、ふ、と溜息をひとつ。あの信じられないほどの馬鹿力はいったいどこから出ているのだろう。人間なのかすら疑わしい。

「……あれ、レンガも平原に？」

　彼女の呟きに、全身の傷を見ていた視線を上げる。彼女の動きがはたりと止まっている。何かを察したような表情、からそれは苦笑いに変わった。

「私もだよ」

　も、ということは。
　僕も彼女も、アレに酷い目に遭わされた、というわけか。何だかおかしくなって、思わず声に出して笑ってしまった。笑う僕に、彼女が腕を伸ばす。

「君の傷は平気？」
「大丈夫、僕は慣れてるから」

　自然に治癒するまで耐えられないような傷でもない。もともと、傷の治りは早い方であるし。しかしヴェスは、僕の傷に腕を伸ばしたまま。

「慣れてる、とは言ってもね。支障が出ると大変でしょ？」

　彼女がラウロ、とエンブリオの名を呼ぶ。癒しの術が発動して、暖かい力が流れた。力は、僕の身体の傷をやわらかく包んでいく。痛々しい痕を晒していた傷は、じわじわと綺麗に塞がっていく。

「ありがとう、わざわざ」

　ヴェスと、それからラウロに。傷を癒す力を放つ小さなエンブリオを、今まで我関せずといった態度で僕の肩の周りをふよふよ漂っていたロークが、冷えた緑の目で観察していた。その視線に混じるのは、自身の持たない力を持つエンブリオへの、ほんの少しの興味のような。
　彼女の腕に抱かれたもうひとつのエンブリオが、そんなロークを不思議げに見つめている。

「いやぁ……近接は嫌いなんだけどね」

　逃げ損なった、と付け足して、彼女もおかしくなったのか声をあげて笑った。

「ラウロ、ありがとうだって」
『どういたしましてです！』

　ヴェスの言葉に、小さなエンジェルは顔を上げておしゃまに笑う。愛らしいエンブリオに微笑み返した。ロークにも、この十分の一くらいでもいいから愛想の良さを持ってくれてもいいのに。――あ、やっぱりいい。
　自分で愛想の良いロークを想像して、気分が悪くなった。自分の中で意識を切り替えるように、ヴェスとの話に戻る。

「僕もまあ、近接は苦手だけど」

　得物はこれだし。と二丁のダガーナイフを示した。遡る記憶は遠いが、はっきりと思い出せる。たとえ僕が普通の人と同じく忘れる生き物だったとしても、この記憶を忘れることはないだろう。
　一時の旅をともにした友人が、僕のためだけに作ってくれたもの。丸腰じゃいくらなんでも駄目だろと笑った彼は、姿の変わらぬ僕の前で、老衰で穏やかにこの世を去った。
　彼の双子の息子と娘の名を冠したこの一対の刃を、僕が手放すことは決して、無い。

「ダガーナイフ、か。ほら、私はこれだから」

　見せられるのは杖。恐らくは術を唱えるために特化したもの。彼女のそれにも、何か謂れがあるのだろうか、と意識の隅に考えつつ。

「僕たち二人とも、肉弾戦は向いてないんだね」
「ああ、そうみたい」

　お互い傷が癒えて、今のところ敵に襲われる心配もないからか、流れる空気は穏やか。笑いあう余裕さえある。
　相変わらず不躾に彼女のエンブリオたちを睨みつけていたロークの首根っこを、さすがに咎めるように掴んだ。

「ほら、そんな目で見てたら失礼でしょ」
『…………』

　引っ張られ、叱られても彼の態度は変わらず。ヴェスの可愛らしいエンブリオたちは、仏頂面の彼の態度を気にした様子なく笑いかける。笑いかけられても、頑としてその表情は変わらない。

「……君のエンブリオは、不思議な雰囲気だね？」
「彼は、まあ。ここに来る前から付き合いがあるから」

　もともと人であったものがエンブリオになると、やはり雰囲気が違うものなのだろうか。確かに、彼女のエンブリオたちとは対極的に暗いし人付き合いも悪そうだし、実際、他人に対する態度はよいものでは決してないけれど。

「ああ、そうなんだ。古い知り合いなんだね」
『無愛想なのね！』
『ぶあいしょ？』

　目を細めてロークを見つめるヴェスの視線は、何かを見定めるようでもある。その主とは裏腹に、上機嫌にはしゃぐエンブリオたちの様子は、公園で遊ぶ子供たちを見るようで自然と微笑みを誘う。
　ただロークだけが、眉間に皺を寄せた。

『無愛想、で、……悪かった、な』

　どこか憮然とした面持ちで、ロークがぼそりと低く呟いた。事実であるのに、無愛想と言われるのは気に食わなかったらしい。ほんの少し、自業自得だと思った。

『ごめなしゃい』
『気に障ったかしら、ごめんなさい！』

　無愛想と評した本人たちに悪気はもちろんなかったようで、素直に謝罪を述べた。その主も、ほんの少し笑んで。腕の中にいるエンブリオたちの頭を小突いた。

「ごめんなさい、レンガの古き知人さん。この子達に悪気は無いんだ」

　合計三人からの謝罪は、ロークは予想していなかったものらしく。よくよく観察しなければわからない程度に目を見開いて、ぼそ、と気まずげに囁く。

『…………ローク、だ。構わん、いつも、の、こと』
「拗ねてるだけだからいいんだよ、気にしないで」

　ヴェスの腕の中にいるエンブリオたちを撫でてやると、喜んできゃいきゃいと声をあげる。かわいいなぁ、と素直な感想をひとつ。
　腕の中ではしゃぐエンブリオたちを諌めつつ、くすり、笑いつつ。ヴェスの視線がロークに向いた。

「君には自己紹介していなかったよね。私はヴェスペールト、ヴェスで構わないよ。宜しくね」

　ヴェスの自己紹介に、元の仏頂面に戻ったロークが微かに頷いて返した。他人に反応を返しただけ、いつものロークからしたら随分進歩している方だ。

「……よし、少しでも進んでおこっか。レンガは平気？」

　ヴェスが立ち上がる。その視線は、半分見上げるように。僕の方が頭一つ分ほども高いから、当たり前といえば当たり前だ。
　傷も、もう充分気にならない。

「そうだね、進もうか。――僕は平気だよ。君より丈夫な自信はある」
「そう？　それなら進もうか」

　僕より下にある頭に、ぽん、と手をおいて撫でる。彼女の顔に浮かぶのは、照れたような笑み。かわいらしい、少女の微笑。こちらも、口元を綻ばせる。

「次はどうなるかな」
「二人なら……何とかなるんじゃない？」

　既に幾度かぼろぼろにされている水辺。しかし今は、ヴェスが共にいる。きっと、大丈夫だ。

『……そーやってすぐに肩入れするから、苦しむんじゃねーの？』

　ぽつり。脳内に響いた声は、ロークではない、青年のもの。旅路の途中で契約したキラーウルフの器を借りて、身に宿るエンブリオとしてこの世界にも顕現を可能とした、僕の「他人格」。
　声には出さず、意識だけで返答する。

『だけど、僕は「そうしつづけなければならない」。……漣だって、わかってるでしょうに』
『ハイハイ、わかってますよ。……苦しみ続けろ、ってこと、なんだろ』

　歩き出すヴェスには気づかれないように、眉根を寄せて溜息を落とした。

　特に考えるような間すら無く、少年は薄っぺらい微笑みと共に答えを返した。
　病的に白い肌。薬物中毒者のような灰色の瞳。墨色の髪と、百合のように細い首筋。
　噂に聞いた通りの『呪術師』が、少年である事は間違いない。

　ゆっくりと、『呪術師』は、紅の瞳を覗き込むように、伏せていた灰色を持ち上げた。

何か失礼を働いてやしないかと不安になった、とまでは言わずに、曖昧に笑みで誤魔化す。

君も何やら、大変みたいだね。と言い足す。

交互に紹介をされれば、フローロは照れたように、ラウロは得意げに、くるりとターンしてみせた。

カエルに口うるさくあれこれ言われながら歩いていると、白い姿に声をかけられる。
思わず足を止め、まず相手が生きている人間かどうかを確認する。
次に身体のどこかに、人狼病の異変が現れていないかを。

傾げながら見上げる長身には、様子を見る距離しか感じなかったのだけども。

肯定されたら、カメのエンブリオを投げて逃げよう。

人でも探しているのだろうか、自分のように。
軽く首を傾げると呪いを編みこんだ髪がまっすぐ下へ流れ落ちた。
それは何を、誰を意味していたのか。