
呪縛とは、決して本当にそれそのものを指すだけの言葉ではなく、概念的なものにも当てはめられる言葉だ。
ありとあらゆる繋がりが時に枷となり、呪いを縛り付ける。血の繋がり、立場の繋がり、所属する集団、慕情感情悪意怨念――そして、世界。自分にはとっくに、世界以外の縛るものがなくなったと思っていた。現実は違う。
「……」
ずっと昔、正確に言うのなら人より長い時間を過ごした結果圧縮されて遥か昔のように感じられるまだ人間として生きていた頃、咲良乃スズヒコという男には娘が二人いた。
上の子はアルム。下の子はユーエ。快活な上の子と、大人しい下の子だ。病弱ではあったが強気な妻と、ごく普通の家庭を築いていた。
普通でいられたのは途中までだった。
仕事の都合で引越すとき、まず家族は二つに分断された。父と姉、母と妹がそれぞれ別の国で暮らすことになった。それは合流する前提を持っていたはずだったが、無残にも粉砕された。
国という集団は気まぐれなもので、いつまでも同じ状態が続くと思ってはいけない、ということだった。ただそれだけのことなのに、一つの家族はは再起不能な状態にまで引き裂かれた。原因は家長が集中攻撃を受け、その身を顧みない反撃行動に出たからだった。
――要するに、娘を置いて自殺した。預け先も、この先のことも、何もかもを整えた上で、死地に向かって全てを焼き殺した。死なばもろともとはよく言ったものだ。
上の娘は強い心を持ったまま無事に育って成人し、下の娘は大人しく控えめな性格のまま大人になった。下の娘がどうやって大人になったか、聞いたときには娘の心はぐちゃぐちゃに苛まれたあとのことだった。
人の心に取り入る呪縛を、未来あるはずの娘から奪い取るようにして、ここに立っている。
代償として、軽いものだと思っていた。ほとんど何もできなかった方の娘に、ようやく手をかけることができた。そのつもりでいた。
その、微かに残っている柔らかいところを刺すように、娘の形をした誰かが語りかけてくる。もう何も関係ない、お話は「めでたしめでたし」で全て終幕、そう定義してしまえばよかったはずだ。けれど、どれだけ異形に落ちても、むしろ異形に落ちているからこそ、釣り針が引っかかったように抜けないのだ。返しがぐずぐずと頬の裏を引掻き、そうならなかった可能性のことを思ってしまう。判断ミス。あのときそうしていなければ、あのときそうしていたら、というたらればでしかない。けれども、それを後悔と定義する以外のことはできなかった。
「これは多分、これで終わりにするから、という後悔のひとつなんだと思う」
「……」
「後から悔やむと書いて、後悔。後から悔やむ、後から行動の間違いに気づく……いや、俺は間違っていないとは思っているんだけど」
「じゃあ、それでいいんじゃねえのか」
緩やかに首を横に振る。
「違うんだ。正しかろうとどうだろうと、“したこと”を悔やんでいる。では何もしなければよかったのでは?と言われたら……しなかったことを悔やんでいただろうね。そういうものなのさ」
「……そうか」
悔いることからは、どうあっても逃れられない。その種別や重さ軽さはさておいても、考えられるのなら考えてしまう。結果が自分の動きに拠るものなら、はじめから故郷を出なければよかった。そういう発想に至るタイプの人間だった。
恐らくはどこでどうなっていたとしても、何かを後悔せずにはいられない。そういう気質、精神、その他様々なものが咲良乃スズヒコという男を構成していた。
それそのものには何も、悔いることはない。
『でも、どうするか決めるのはアンタ次第だ。……で、まあ、俺はアンタの結論には従うし、協力する。いつもと同じさ』
そう、いつもと同じだ。
「……射撃するのに、障害物があると面倒なんだっけ?」
「そりゃあ……狙いが決まってるなら間に何もない方がいい」
「ギリギリまで隠しておきたいんだよね。骨とかそういうものがなければ貫通する?」
「アンタさあ……」
そこまで言えばもう、何が起こるか、何をするつもりかなんて、分かりきっていた。
的を隠した上で、さらに言えば貫通させて――
「俺ごと撃ち殺して欲しいんだ。必要なら射角や抵抗は計算する」
弱みを握られているのなら、その範囲の外から手にかける必要があると考えていた。
同時に賭けでもあった。随伴しているものが殺しに長けていることを知らないという前提の、少しリスキーな賭けだ。自分は撃たれたくらいでは死なないが、その向こうに二発目三発目を叩き込めるかは――いや、きっとやってくれる。
「……分かったよ」
「どうも。細かいことはまたあとでね」
まとめておくから、となんてことのないように言ったけれど、同意が得られなかったらどうしよう、と、少しだけ恐れていた。けれども杞憂だ。いつもと同じように、頭脳仕事は自分が。その結果として導き出された汚れ仕事は、彼が。
何も変わらずにいた。何も変わらずにいてくれた、と言うべきか。
ぱたんと本を閉じ、人のざわめきからそっと離れる。人(かどうかも怪しいが)を殺す殺さないの話は、人のいる場所でするものではない。
ある程度離れたところで、再び本を開こうとしたときだった。
「おい」
自分と全く同じ声がする。
心当たりはひとつしかないし、それも同様にここに来ているとは思わなかった。
振り返ることをしないでどうすべきか図りかねていると、軽い足音がして、自分を追い抜いていった。視界の中にわざと入り込むように躍り出てくる、同じ髪の色。同じ目の色。同じように尻尾を持っていて、同じように角を生やしている――
「……」
「ご挨拶もナシか?落ちぶれたな」
「黙れ。お前こそどうしてここにいる?」
これもまた昔の話だ。むかしむかし、本の世界で産まれ直した人間は、手に入れてしまった破壊的な側面を裁断して切り離した。そうすれば消えるか無力化できると思っていたからだ。
現実は違う。遥かに膨れ上がっていた破壊的な、あるいは悪という側面は、本の世界という特質と相まって、別冊として自立した。いわゆる一つの別側面、もしくはもう一人の自分――はじめから対話することを放棄し、犠牲として捨て置くはずだった自分。炎の中に置いてきたように、本の世界に置いてくるつもりだったものが自我を持ち、世界を超えて追いかけっこを繰り広げ――まあ、互いに落ち着いたものだと思っていた。否定の世界には世界に否定されなければ落ちてこれないし、この男を世界が否定するのは難しい。ずっと本の世界の理を持っているから、あの世界ごと否定されなければ来れない。……はずだ。理論上は。
大きな声をあげた結果、別の方向に歩いていこうとしていたフェデルタもこちらを見ていた。恐らくまたこいつか、という顔をしているし、可能なら発砲できる状態になっていることを期待している。スズヒコはこの自分の別側面のことがとにかく嫌いだった。
「いいねぇ、短気で。昔の俺みたいじゃん……人の話を聞く気があるならその構えを解かないか?」
「黙れ。」
「黙ればいいのか話せばいいのか分からなくすんのもやめなって」
鏡に映った自分は、思っている以上に醜い。それを体現しているのが【誰がための自己犠牲】だ。スケープゴートとして捨て置かれ、その後何度かのやり取りを経て確信した。これはどれだけ自分から離れていこうと俺であることに変わりはなく、この狭間に来てから従えている獣と全く同質のものだ。彼がオルターエゴ、すなわち他我となったとはいえ、本質は自分の鏡写しで、そこに落書きでもするかのように要素が加えられていったものだ。今の姿が彼と大して変わらないことから見ても、それは明らかだ。
「……何故来た?いや、何故いる?」
「やれやれ。……何故もクソも、仕事だよ仕事。俺にだってそういう窓口はある」
とこしえの命はヒマだからな、と肩を竦めてみせる姿は、あまり気分の良いものではなかった。というのも自分よりずっと露出が激しいのだ。そのくせ同じ顔、同じ姿で話すのだから、気に障って仕方がない。
「……」
「……疑ってんなぁ。俺みたいなやつがどこから、って思ってんだろ、分かるぜ、なんせ俺もそう思ってる」
「何……?」
【誰がための自己犠牲】クロシェット・アストライアー・スケープゴートは、戦闘意思はないです、と言わんばかりに、その両手を頭の後ろで組んだ。彼の主に使う武器は射撃武器だということも知っていた。いつでもその気になれば殺せる、というつもりでいた構えを解くと、クロシェットは自分と同じように、似た装丁の本をどこからか取り出す。
「……まあ……こうした方がお前には早いだろ。はい」
本を開き、そのページを一枚破り取る。
それがそのまま紙飛行機として折られ、飛ばされ、スズヒコの足元に落ちた。
「それで全部。ここにいる理由も、来た理由も、その他いろいろも」
「……随分物分かりがいいじゃないか」
「いやあ、三十六時間――残り十時間しかないらしいじゃん?じゃあ急ぎの方がいいでしょ」
落ちた紙飛行機を拾って、開かずに握りつぶす。
すうと降りてくる感覚。男の視界から見た、記憶。
結論から言うと、この眼前の少女は神であり、自分など簡単に焼き殺して眷属にすることができる、という前置きをもらった上で、クロシェットは一人の少女と相対していた。
長い髪を高く一つに結わえた、空のような目の色をした少女だ。耳の位置から翼が生えていていることを除けばごく普通の少女に見えた。前置きの時点で普通ではないことは分かりきっていたのだが。
『あなただからできる仕事をしてほしいの』
『具体性に欠ける。くだらねえことで呼び出されるほどヒマじゃない』
『歯向かうのが好きなの?お似合いだと思うわ』
見つめる瞳がより白に近づいていったのを感じるのと同時に、確かな熱を感じた。首を横に振る。
『気が早えよ。具体的な話からしてくれないか?』
『そうね。わたしたちが指定する世界に行って、わたしたちが指定する人と会ってほしいの。あとは、自ずと分かるわ』
少女の唇が動く。『すずのなるゆめ、さくらのすずひこ』と発音されるだろうことを、確かに読み取っている。
『……俺たちはとっくに縁切って、とっくに別人のツラで動いてるんだ。今更わざわざ繋げようとする意味はどこにある?』
『ここにあるの。あるから、来たのよ。もちろんあなたに、相応の報酬は用意するわ。例えば、好きにできる力とか?』
小さな手が差し出されているのが見えた。
周囲を熱源で囲まれていることも同時に感じられ、要するに拒否権は始めからなかった、と言うわけだ。
肩を竦めて、クロシェットはその小さな手を取る。
『あなたは生贄。スケープゴート。それは、ずっと昔から定められていること』
『……まーたそれか』
『理解が早い生贄ほど大切にされるものよ。次にあなたが引き受けるかもしれないあらゆるものは、わたしたちが責任を持って“処理”することになっているの。どう?』
生まれ出たその瞬間から生贄であり、その名からそれを外せない。
そうあることが定められている男は、面白そうに笑い声をこぼした。
『そこまで手厚いのは初めてだな』
視界が暗転する。

[821 / 1000] ―― 《瓦礫の山》溢れる生命
[448 / 1000] ―― 《廃ビル》研がれる牙
[490 / 500] ―― 《森の学舎》より獰猛な戦型
[196 / 500] ―― 《白い岬》より精確な戦型
[408 / 500] ―― 《大通り》より堅固な戦型
[323 / 500] ―― 《商店街》より安定な戦型
[249 / 500] ―― 《鰻屋》より俊敏な戦型
[181 / 500] ―― 《古寺》戦型不利の緩和
[104 / 500] ―― 《堤防》顕著な変化
[146 / 400] ―― 《駅舎》追尾撃破
[5 / 5] ―― 《美術館》異能増幅
[145 / 1000] ―― 《沼沢》いいものみっけ
[100 / 100] ―― 《道の駅》新商品入荷
[287 / 400] ―― 《果物屋》敢闘
[40 / 400] ―― 《黒い水》影響力奪取
[181 / 400] ―― 《源泉》鋭い眼光
[80 / 300] ―― 《渡し舟》蝶のように舞い
[97 / 200] ―― 《図書館》蜂のように刺し
[73 / 200] ―― 《赤い灯火》蟻のように喰う
[45 / 200] ―― 《本の壁》荒れ狂う領域
[66 / 100] ―― 《珈琲店》反転攻勢
[100 / 100] ―― 《屋台》更なる加護
[55 / 100] ―― 《苺畑》不安定性
[1 / 100] ―― 《荒波》強き壁
[62 / 100] ―― 《小集落》猛襲
[0 / 100] ―― 《落書き壁》リアクト
[20 / 100] ―― 《変な像》揺らぎ
―― Cross+Roseに映し出される。
・・・夜空が見える。
どこからともなく無数の光の玉が空へと浮かび上がり、
真っ暗な空間を星々のように彩りはじめる。
少しずつ、少しずつ、
光が寄り添い集まっていくように見える。