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黒い靄の怪物と一戦交えたこと、小さなガラス瓶を回収したことを電脳通信で報告しつつ、
散らばった品々の中から生徒手帳らしき冊子を摘み上げる。
表紙に描かれた紋章は勝手知ったる我が校のそれだ。
表紙裏にはその生徒の所属と顔写真が添えられているはずの代物で。
「……まさかとは思うけど」
頁を捲れば、そこにはよく見知った顔と名前が載っていた。
同じクラスどころか、通路を挟んだ向かいの席に座る男子生徒。
親しいというほどではないにせよ、時折取り留めのない会話は交わすような相手ではある、が。
「…………」
ふと視界の隅に行方不明者の載ったウィンドウを開き、横目で見やる。
それらしい報告があればリアルタイムで更新されるよう組まれているも、今のところ該当する項目は無い。
となると、やはりつい先刻、登校中に襲われたということになるのか。
いつだか靄に襲われた人間がどうなるか、という話を霖子としようとしてやめた覚えがある。
彼女の方も、そういった話の流れになった際に言及を避けるきらいがあった。
わたしの精神的な影響を考慮したとは考え辛い。寧ろあえて言うまでもない、といったところだ。
その辺りも含めての『想像力を養え』なら、随分と信頼されたものである。
或いは、いずれ分かる時が来る、とでも言いたかったのだろうか。
常日頃から時間に余裕を持って通学しているのもあり、最終日に遅刻を決める事態にはならずに済んだ。
ただ、"あの席"は最後まで空いたまま、果たして本人が来ることもなく。
彼を心配する声もさして聞かず、下校間際に消息が途絶えたという旨の話が噂されるに留まった。
わたしには、それがどうしようもなく不気味で堪らなかった。
所詮どこまでいっても他人事に過ぎないけれど、彼ら彼女らは対岸の火事を眺める野次馬であって、明日は我が身などと考えもしない。
きっと新学期が始まる頃には誰もがそのことを忘れてゆく。
であればせめてわたしだけでも、彼がどういう人物だったか記憶・記録して然るべきではないか。
黒い靄を相手にすることの意味――戒めとして。
正午を回って程なく。隣町、三椏は有古山の天守神社へ向かう道中。
外部記憶の一角を切り分けて、彼の名前と共に日常の些細な記憶を保存する領域を用意した。
当然、学校にいる間の彼のことしか知り得ないし、それもたったの一年分であるから、わたしの記憶から抜き出せた"思い出"はほんの僅かだ。
電脳化していたという話は終ぞ耳にしなかったけれど、靄に襲われた以上は恐らくはそうなのだろうし、
ネットに少しでも彼に関する情報が残っていれば、出来る限りはサルベージしたいところだが。
そうなると、やはりその分野に強い叔父を頼るしかなさそうだ。
◆ ◆ ◆
"電子の海。どこまでも広く、深く、そして溺れやすい。"
◆ ◆ ◆
同じ電脳都市と括られてはいても、中心地である海棠と隣にある三椏とでは街並みに大きな差が生じる。
前者は街自体を丸々再開発した関係で、どこへ行っても高層ビルの群れが櫛比して見えるが、
後者は外側へ向かうにつれて建物の背が低くなり、緑が増え、やがて閑静な住宅街が広がっていく。
電脳通信網や各種交通手段、防犯用の監視設備が整えられこそすれ、景観を損なわせてはいけないというのが開発上の信条であったらしい。
有古山はそんな三椏市の外縁部、市の境目に位置する。海棠の双海のお屋敷から車でも幾らか時間が掛かる距離だ。
標高五〇〇メートル少々の有古山、その中腹。
登山道の半ばを脇に逸れた先、神社の境内からは、三椏市街はもとより海棠のビル群をも望む事ができる。
――遥か昔より、この地に住む者たちから祀られてきた神様は、注がれる信仰心に応えんばかりに安寧を約束してきた。
長きに渡り脈々と続いた信仰が時代と共に薄れ、やがて現代に天守の巫女たちを残すのみとなってなお、
有古の神はいつも人々を見守っているのだ、と霖子は語る。
「それで、戦ったというのは本当なのかしら」
神社の社務所で霖子と顔を合わせるや、今朝起きたことの説明を求められた。
念の為にと裏手に回り、熱いお茶を勧められながら縁側に座る。
返事代わりに懐から小瓶をつまみ上げて彼女に見せると、ぴくり、と眉が動く。
香水のそれに似た意匠のガラス瓶の中で真っ黒な液体が揺れる。
パルファン
「あなたが"それ"を持っているとなれば疑う余地は無いわね」
「パルファン?
これが何なのか知っているんなら、教えてくれないか」
「そうね。隠す理由もないのだし、耳に入れておいてもらうにはいい機会でしょう」
言いつつも奥の部屋へと姿を消す霖子を横目に、一口含んだお茶の熱さに舌が痺れる。
程なく戻ってきた彼女の手には古めかしい桐箱が一つ。
自分の座るすぐ側に置き、蓋を外して中がよく見えるよう、こちらに寄せた。
黒い――咄嗟に思い浮かぶどんな物よりも黒く――暗い。
大きさこそ違えど、いま手に持っているそれと同一の物であると直感的な部分が知らせてくる。
「五代前の天守の巫女が靄を消し去った時に生成された、"最初の香水瓶"の現物。
靄の力を瓶の形に封じ込めたものとでも思ってもらえればいいわ。
遠い昔からこの土地にはそういった怪異が存在していたけれど、
これを境に、有古山の周辺でより力を持ち、姿形のはっきりした固体が増え始めた。
それが今日まで残存している奴らの先駆けであり、近年更に勢いを増しているの。
私達は同等の力を有したものを
パルファンと呼ぶことにしたのよ」
「私達?」
エーデルシュタイン
「私と、宝石箱の技術部、それにあなたの叔父よ」
「…………」
挙げられた名前の大きさのあまり、咄嗟に言葉が出てこない。
エーデルシュタイン・インダストリーと言えば、国内でも有数の義体メーカーだ。
現在普及している電脳用OSの開発にも携わった、海棠に無くてはならない存在である。
そこへ叔父が入ってくるのも理解出来なくはないが、この件で技術屋の出しゃばる余地がどこにあるのか。
「……色々と言いたいことが増えてきたけど、とりあえず一つ。
どうして宝石箱なんだ。これは単なるオカルトの話じゃあないのか?」
「黒い靄の話だけをすれば、そうでしょうね。天守の巫女一人でも済む問題だわ。
ところが事はそこまで単純にならなかったのよ。
海棠に渦巻く陰謀の一つ、と言ったら、あなたは納得できる?」
海棠の陰謀。即ち技術者や官僚らの権力争い。
表向きにこにことプレゼンテーションを交わし、売る者と買う者、良好な関係を築いているように見せて、
裏では他者を蹴落とし、優れたものを独占すべく火花を散らして、時には法を逸脱した手段にも訴える。
自らにとって都合の悪いものを始末する便利な道具は誰もが求めるところだ。
そこでもし人智を越えた力を御し得たなら、それは強力な武器になろう。
その為に目をつけたのが昨今巷を騒がせる黒い靄と、それに対抗する者たちだとしたら。
「そのパルファンに対抗するだけの技術があれば、
もしくはこの香水を別のことに使えるようになれば――」
「そういうこと。
幾つかの派閥でそれらしい動きがあったから、万一の事態を見据えたわけ。
私達の持つ力への理解を深めるきっかけにもなりうるわ」
「被害者が増えた原因もそこにある……?」
桐箱を片付けながら霖子は肯定の意を込めて首を振る。
靄自体に比較的単純な意思が備わっている以上、"力を持つ者"を探すに当たってこれを利用しない手はない。
実際、今朝のわたしは映像に記録されたそれにおびき寄せられた形になる。
パルファンなるものの制御が既にある程度行えていたなら、或いはこの身も危険に晒されてはいないか。
「叔父が一枚噛む理由もなんとなくわかった。
……霖子、ついでにもう一つ聞いておきたいんだけど」
「何かしら」
「黒い靄――パルファンに取り込まれた人間はどうなる?」
この日、どうしても尋ねておきたかった問いを投げかける。
答えに期待してはいないけれども、今を逃せば機会が訪れない気がしたからだ。
「あなたの知りたいことにだけ答えるなら、
助からないわ。
少なくとも今のあなたの力では、ね」
「……そう。じゃあ、これ以上はいい」
それなのに、分かりきった解答に対して素っ気ない返事をする以外になく。
"今の"、という部分に言及する気力すら湧かないので、わたしには冷めきったお茶を呷るのが精々だった。
過ぎたことを悔いているのかというと、些か異なる。
二人ほど例外はあるものの、今度の彼や身の回りの誰に向けても特別な感情を抱くことは滅多にない。
しかし時と場所が変われば若しくは結果も変わったか、などと僅かばかり考えてしまったのもまた事実だ。
人並みの日常、その幾らかを否定された身として、ここ一年ほどは多少なりとも満ち足りた日々を過ごせたと言えるが、
そんな当たり前に続いていくはずの日々にも、いずれ変化は訪れてしまう。
いつからか胸中に根付いていた、漠然とした不安。平穏な日常が崩れ去る瞬間。
何気なく眺める風景の一部がはたと欠けることへの恐怖心は確かにそこにあって、常にわたしを締め付けている。
彼が居なくなってなお
いつも通りの教室に居心地の悪さを覚え、得も言われぬ義務感に苛まれたのも、変容する日常からの逃避に他ならない。
――当時のわたしは紛れもなく未熟者であったし、場数を踏んだ今も決して成熟しているとは言い難い。
けれど未成熟さは万事の言い訳にならないのだと嫌でも理解させられたから、自分をこそ変えていく必要があった。
変えようとして、変わろうとして、果たしてほんの少しでも、変わることが出来ただろうか。