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「はい、黒峰総研出版部の大曲と申します。今度うちで科学系の雑誌を創刊することになりまして、初回の特集が『生物毒』なんです。それで是非斑目先生にお話を伺いたくて」
青斑巳波との商談の後、大曲晴人はその足で創峰大学第二学群棟内の研究室のひとつ、海洋生物学専攻斑目研究室を訪れていた。
用意してきた口上を述べながら、素早く部屋の中に目を走らせる。
取材相手、ということになっている教授と自分しかいないはずの部屋。それなのに、どこかから視線を感じる。好ましい状況ではない。
恐らくは、室内にいくつも置いてある水槽のどれかだろう。
大曲晴人の異能の発動には、他者からの『観測』、即ち視線が大きく関わる。人間以外の動物は基本的に支障ないが、稀にこうして視線を感じることがある。できれば排除しておきたい要素だ。
「いやあ流石大学の研究室、色々な生き物がいますねえ。あ、僕これ初めて見ました。役得だな~」
感嘆したようにひとつひとつ水槽を眺め、視線の主を探す。
不釣り合いに大きな水槽に入った小さな蛸の前で足が止まった。
――コレだ。
「ウワッ」
大曲はわざと驚いたような声を上げて、肩を跳ねさせた――
***
シュレーディンガー・ブラックキャット
"未観測運命理論・不在の黒猫"の名は言うまでもなく、かの有名な量子力学の思考実験にちなんだものである。
――『観測』されるまで、運命が確定しない。
言い換えれば、『観測されていない時に限り、自分の状態を任意に選択できる』。それが大曲晴人の異能だ。
『状態』、すなわち体調や現在いる位置――そして生死すらも、『観測されていない』という条件さえ揃えば覆すことができる強力な異能である。
普段はもっぱら、「人目のない地点間限定の疑似瞬間移動」として使われている。この異能により、大曲は営業職としてイバラシティのあちこちを忙しく走り回らされている。
異能が発現したのは小学生の頃。
好奇心旺盛な子供だった大曲は遠足で訪れた山ではぐれ、三日ほど行方不明になった。
道端で座り込んでいるところを通りがかった配送業者に保護されたのだが、誰にも会うことなく山中で彷徨っていた三日の間に、大曲の存在は両親や近しい友人の記憶からすっぽりと抜け落ちてしまっていた。
大曲の異能は効果だけ見れば強力なものだが、制約が大きい。
そして、何よりも。
異能の効果により、「一定期間他者に観測されないと自身の存在が証明できなくなる」という問題を抱えていた。
小学生の頃の遭難事件から推測すると、期限は三日間。
三日間誰とも接触しなかった場合、存在を証明する情報が欠け始め――恐らくは、最終的には誰の記憶にも残らなくなる。
大曲晴人という人間は、初めから存在していなかった。
そういうことに、なるのだろう。
***
それが大曲晴人の異能と、過去についての『設定』だ。
ある意味では、それは限りなく正しく――皮肉とすら言える。
大曲晴人という人間など、初めからイバラシティのどこにも存在していないのだから。
「……ホント、よくできてるわよね。『ワールドスワップ』だったかしら」
本来イバラシティにいなかった住人があたかもずっと暮らしていたかのように、記録も認識も書き換えられる。『ワールドスワップ』という異能は、そういうものであるらしい。そうして入り込んだアンジニティの侵略者達は、イバラシティへの侵略戦争を開始した――そう聞かされている。
「で、あたしはこわーいこわーい侵略者の役ってわけ」
気乗りしない様子で瓦礫に腰掛けたまま、男――大曲晴人はため息をついた。数時間前に『ドライバーさん』を名乗る人物からもたらされた情報も、憂鬱の種のひとつだった。
そこに、ぱたぱたと軽い足音を立てて、小柄な女が近付いてくる。
「せんぱぁ~い」
鼠森 かのん
黒峰総研社員。大曲の後輩。
自分のことを「のん」と呼ぶ。
異能:"鳥無き空の追唱残響"
(ピピストレル・ゴシップカノン)
「あら鼠森。どうだった?」
「だーめですねぇ。この辺り、あんまり人がいないみたいで」
「そ。仕方ないわね、移動しましょうか」
「ですねぇ~」
大曲は首を振って立ち上がり、歩き出す。女――鼠森かのん(ねずもり かのん)も後に続く。
彼らは元々いたイバラシティの住人ではない。
「でも~、先輩がこっち側で本当によかったですぅ。実はグロい化け物とかだったらどーしよ~とかぁ、思ってたんで~」
「あんたわかってて言ってるでしょ。置いてくわよ」
「あーんウソウソ、ウソですぅ~! のん、アンジニティに来る前から先輩のこと知ってましたもん。オカルト研究会ではお世話になったし」
大曲と鼠森は元々同じ世界にいた、大学のサークルの先輩後輩という間柄だった。
それがイバラシティでは会社の先輩後輩になっていたが、基本的な関係性は変わっていない。二人がハザマで偶然出会い、一方的についていくと言い出した鼠森を大曲が特に追い払わなかった結果、今現在まで何となく行動を共にすることになっていた。
「でも困っちゃいましたねー、『ドライバーさん』が言ってたこと。のん、あんなぐちょぐちょべたべたしたキモい生物になりたくないですぅ」
「あたしだってなりたくないわよ」
大曲晴人と鼠森かのんは、ここまで戦闘を避けてきた。
どちらも戦闘向きの能力を持っていない(あと服を汚したくない)ということがその理由だったが、どうやらそうも言っていられない状況になってきたらしい。
「とにかく、勝てそうな相手探して喧嘩吹っ掛けるしかないわね」
「ですねぇ~。うーん、それこそ斑目水緒とかどうですかぁ? 異能はわかってるわけだしぃ……あ、でも"どっち側"かわかんないかぁ」
「どっちだか知らないけど、うっかり返り血浴びたら最悪死ぬわよ。あたしはあんな生物兵器に近付きたくないわ」
「そ~ですかぁ……ウチの社員の弱そ~なヒトとか、来てないですかね~。あたしの同期の子でぇ、全っ然戦えなさそ~な子とかいるんですけどぉ」
「あんたホントいい性格してるわよね」
「先輩に言われたくないですぅ~」
そんな軽いやりとりを続けながら。女はぱたぱたと大曲の少し後ろをついていく。
「先輩はぁ……イバラシティを手に入れたら、何をしたいですかぁ?」
歩きながら、鼠森がそんなことを言う。
大曲は唇に指を当てて、首を傾げるようにして振り向いた。
「あら」
(――まあ、そう思われるように振舞ってはいたけれど。)
「あたし、"イバラシティを侵略する"なんて言ったかしら」