「ちょっと、ボクと勝負してみない?」
夏休み最大の厄ネタは、そう言って怪しく笑った。
LOG:8⇔0/Wednesday, 13 July 2014/PM10:43
Repeat
ぶっちゃけた話、憂鬱なのだった。
小学生は気楽なモンだと会う大人たちはみんな言うけれど、絶対に嘘だと思う。小学生には小学生なりの悩みってもんがあるのだ。
「俺さ。何して生きていくんだろう」などと早熟気取って垂れる憂いも、中学受験がある世の中では必ずしも的外れとは言えない。小学生だって現実を考えたりするのだ。
俺の場合、来月の母親の命日に合わせてナイーブの入ってる父親(本当に気が早い)とか、アホほど出された宿題(やったことは過去五年ほどない)とか、あと何より世界がぶっ壊れたのかと思うくらいの熱帯夜(寝れない)とか、さっきに外れた自転車のチェーン(現在進行形で直している)とか。
「ねーねー。ありがとうくらい言ってもよくない? 恩人だよー、ボク」
中でも極めつけは、うざったく纏わりついてくるセーラー服の女子高生だ。
事の発端と言えば、夏休み初日の解放感に任せて、人生初の夜遊びに繰り出したことだった。
もっと辿るなら親父が仕事で家を空けていたことにも起因するし、さらに辿るならテレビで夏の星座特集をやっていたこともあるし、まだまだ辿れば何もかも世の中が悪い。俺は悪くない。
ともあれ。俺は慣れない夜の街で、迂闊にも薄暗い細路地に自転車で突っ込んで、こともあろうにガラの悪そうな兄ちゃんにぶつかってしまったのだ。
今後見辛いところを曲がるときはちゃんと減速する癖をつけようと固く思いました。
いや、まあその後俺は大人しく転がった自転車を立て直し、呆けた兄ちゃんを置き去りに、何もなかったことにして颯爽と立ち去ろうとしたのだが、その後の展開が非常に好ましくなかった。
「……なあなあ、正義の味方さん。恩人ってのはさ、幼気な小学生を喧嘩の口実に使って、挙句にその子の愛車を武器としてぶん回したうえで主張してる?」
そういうことだ。
もう少しくらい中身の解像度を上げよう。
俺が不良に絡まれていると勘違いしたこいつが、迷惑にも『その子を離せ』的に蹴り込んできて、俺の自転車で不良をボコボコにした。俺の自転車で。
お蔭でチェーンは外れるわ車体は気持ち歪んでるわで散々だ。
半袖のパーカーを羽織った女子高生は、少しばつが悪そうに黒髪の毛先を弄って視線を逸らした。暗闇の中でも、鮮やかな緋色だから分かりやすい。
「いやあ……だってほら、素手で殴るといたそうだったし。っていうか駄目だよ、こんな時間にこんなところに来ちゃあ。ああいうのいるんだし」
「うわすっげブーメラン。つーかあの人そこまで悪くないんじゃ……」
彼女が白く長い指で示したのは、肌がゴツゴツと無機質に隆起した姿になった、可哀そうな被害者。たとえ女子供が相手とは言え、強襲されて異能と暴力に訴えた彼を誰が責められようか。
そもそも、この街では性別なんか暴力指数の当てにならない。這い蹲っているのが彼で、呑気にコンビニの袋をがさがさやっているのが彼女というのがその証左だ。
そのくらいのこと、一二年足らずの人生でだってとっくに知っていた。
「身体強化の異能って、手とか硬くなったりすぐ治ったりしないのかよ」
「いやあ、そんな都合よくないよ。あれ、買ってなかったっけ──ん? 見ただけで分かるの?」
「片手で自転車ぶんぶん振り回してたら誰だってそう思うよ。融通の利かない異能だな、くそ」
お陰様でしなくていい作業をさせられている。未だ噛み合わないチェーンを前に、思わずため息が零れた。つーか何で壊したアイツじゃなくて壊された俺が直してるのか。
ああくそ、何かもうめんどくさくなってきたな。
投げ出すように立ち上がり、背筋を伸ばすついでにビルに切り取られた細長い空を見上げる。七夕の過ぎた濃紺の夜空には、今も天の川が滔々と流れて世界の明度を上げている。もう少し開けた大通りに出れば、月だってさぞ綺麗に見えるだろう。
そういう景色を見に来たっていうのに、どうして俺の指先は潤滑油まみれになっているのか。言うまでもない、後ろのお節介のせいだ。
改めて文句を言ってやる。そう決めて振り返ったところ、目の前にシュークリームがあった。抹茶の粉とかまぶしてある、コンビニスイーツにしてはそこそこの値段がしそうな奴だ。
「……いや、なにこれ」
「シュークリームって美味しいんだよ。知らなかったかな」
「そこじゃねえよ。あと俺手汚れてるんだけど」
気にするなとでも言いたげに、ずいとシュークリームが近づいた。
「自分用だったんだけど、あげるからさ。機嫌直しなよ?」
「誰の所為だと思ってんだ!? ──もが!?」
思わず声を荒げて突っ込んだ瞬間、そこを逃さず勢いよく突っ込まれた。小麦の香ばしさと抹茶の芳しさが口腔から鼻腔にかけてを蹂躙していく。美味い不味い以前に普通に息苦しい。
どうにかクリームを零さないよう気を遣って噛み千切り、もちゃもちゃと咀嚼の傍ら睨み付ける。何かもう全体的に無茶苦茶だこの女。
「どう、美味しいでしょ? その上女子高生の『あーん』だよ?」
「たぶん本来の味の半分も理解できなかったし、後半どうでもいいし……」
「どうでもッ……」
息苦しさと合わせて収支過不足なく差し引きゼロという感じだった。女子高生、そんな有難がるような紋所なのだろうか。小学生にはちょっと分からない理屈だ。
指先をシャツで拭い、心なしか肩が落ち込んでいる女子高生の手から残ったシュークリームをひったくる。落ち着いて食べてみれば、成る程確かに美味しい。ただ、結構クリームが甘くて喉が渇くこと。
「飲み物とかないの?」
「……あるけど。可愛げないな、キミ。ほら、お茶だ」
あるのか。そしてくれるのか。強請ってみるものだ。出て来たのは緑茶のペットボトルだったが、この際文句は言うまい。
意外に思いながら差し出した手に、しかしいつまで立ってもペットボトルはおろか、缶や紙パックすらも置かれない。
代わりに、頭の上でどむんと鈍い音がした。
「いってェ──!?」
こいつ、人の頭をペットボトルで殴りやがった……ッ!?
「……あ、間違えたな。ラベルの銘柄をちゃんと向けるべきだった。マナー違反だコレ」
「そ、そこじゃねえよ……くぅ……何すんだ急に」
涙目で見上げる。打撲部を抱えて蹲った上にそもそもの身長差が相まって、凄く見下されている気分だ。何で年下を殴ってああも勝ち誇ったような表情になれるのか、俺にはとんと理解できなかった。
どうでもいいけど、結構女子高生には胸があるらしい。この視点だとパースとかが凄い。
「無礼だったから」
マジで見下されてた。しかもどの口がほざくのかという罪状だった。
一撃加えて満足したのか、ぱきぱきとキャップを開ける気の利かせようまで披露して、今度こそ俺に手渡されるペットボトル。『よく振ってからお飲みください』の注釈は無視してもよさそうだ。
……我ながら、だいぶ不用心な。人からもらったものをホイホイ口にするとは。
そんな自戒が浮かばないでもなかったが、あんまりにも馬鹿らしいので気にしないことにした。湿らす程度の一口を含む。抹茶と緑茶、味は結構違うみたいだ。
緩やかな風が吹いて、路地裏の陰気な空気を緩慢に入れ替えていく。女子高生の黒髪が、翼のように広がった。
「で、こんな夜更けに何しに出て来たのさ、悪ガキ」
「……。星が綺麗だったから。それだけ」
言って、何だか自分がロマンチストみたいに思えて顔を顰める。『ぶってる』みたいで受け付けない。
案の定というか、茶化すような口笛が聞こえた。気恥ずかしくなって、それ以上を遮るように質問を返した。
「そっちは何」
「コンビニ帰りさ。夜食を買いにね」
ぷらぷら、がさがさ。夜闇に浮かぶクラゲみたいなビニール袋が揺れた。薄く覗く中身は、カップラーメンとかポテトチップスとかそう言うのばかり。
「太るぞ」
「ふふん、全部胸に行くから大丈夫──あ、今見たでしょ」
図星だった。思わず固まり、血流だけが加速する。気温が二度ほど上がったような気がした。
「すけべ」
「ッ、ば、仕方ないだろいまの! 言われたら見るじゃんだってさあ!」
不用意だった。
泡を食ってばたばたする俺を見て、けたけた女子高生が笑う。どうしようもなく完全に玩具扱いだ。
もう何を言っても逆効果な気がして、俺には小さく唸ることしかできない。それもまた、単なる敗北宣言にしか過ぎないけど。
「いやぁー、可愛げがないとか言ったけどそうでもないね。ちゃんとあるじゃん」
「うるさい、うるさい」
熱を冷ますため、中身が半分ほどになってしまったペットボトルを傾ける。
早くこの場から逃げ出したい。だが無情にも自転車のチェーンは外れたまま。修理を終えるまで、この関係性を享受するしかない。
未だ小さく聞こえる笑い声に歯噛みしながら、再度チェーンと格闘を始める。相も変わらず俺を縫い留めるように、頑としてチェーンは元の位置に収まらない。千切ってやろうかもう。
「力技じゃハマんないよー。指挟まないように気を付けて、ある程度嵌め直したら普通にペダル回してごらん」
やってみた。すぐに直った。
「……いや先言えよ」
何だったんだ、今までの時間。
ともあれ、自転車が直ったならここに居座る理由もない。そそくさとスタンドを蹴り、サドルに跨る。
「何だ、もう行っちゃうの。自己紹介もしてないのに」
「いいよ。会わないでしょたぶん」
「えー……じゃあボクの名前だけ教えさせてよ」
「別に。あとででいい。じゃあバイバイ、シュークリームとお茶御馳走さまでした」
物惜しげな声を出されても名乗らないものは名乗らないし聞かないものは聞かない。残った緑茶だけ丁重に返して、若干噛み合いの悪くなったペダルを踏み込む。
踏み込もうとして。
「待ちなって。──ちょっと、ボクと勝負してみない?」
あんまりにも唐突な誘いに、何故かその足が止まった。
振り返った先、俺が両の瞳で見たものは、唇を吊り上げ静かに笑んだ彼女と、その頭上に輝くやけに大きな月だった。
語るのが遅れたが、これは、きっとなかった話。
あってはいけない物語だ。