
濡れたアスファルトの独特な臭いが鼻を突く。
生憎の夕立に見舞われて、愛車と一緒にびしょ濡れになってしまった。
通り雨の類だったから、既に晴れているものの、既に夕日が落ちかけている時間帯だ。
ライダーズジャケットも着ずに飛び出してきたせいで、吹き抜ける秋風を余計に冷たく感じる。
それでもただ無心に飛ばしていた。
あの時の記憶を振り切るように、アクセルを回す。
────夜の帳を照らしていた事故現場の炎。未だこの鼻腔に、焼けるガソリンの臭いが残っている。
あの時の光景がずっとずっと、脳裏にこびりついて離れない。
あれから半月近くたった今でも、ずっと夢に出てくる。
こうしてバイクに跨って、風を感じていれば気も紛れた。
皮肉な事に、自分から大切なものを奪ったものは、そのトラウマを遠ざけるのに一番の相棒だった。
それに気づくとまた、胸の内が酷く焦げるような不快感に襲われた。
それすらも振り切ろうと、ひたすらにアクセルを回した。
安全運転など、今はクソ食らえだ。
とにかくスピードを出し続けた。
人通りのない山道だからまだ良かったものの、警察でもいたら即切符ものだ。
勿論そんな事を考える余裕も、今の自分には当然なかった。
ただ、脳裏にこびりついた悪夢を振り払いたい。
正直、振り払えれば何でもよかったんだと思う。
何処まで走らせたかも、覚えていない。それだけ目的地もなく飛ばし続けた。
人が通らないような山道で、ふと愛車にブレーキを掛けた。
自分でも何故気づけたかはわからない。
鬱蒼とした雑木林に囲まれた景色の中、誰かの視線を感じた。
フルフェイスヘルメットを取り、周囲を見渡した。
既に日は落ち、辺りは暗い。バイクのライトが非常に目立つ程に。
それほどまでに暗い空間なのに、
"それ"はすぐに目つく程、強い存在感を放っていた。
紺色の和装姿の老人だ。ほっそりとした長身で、白髪となっても尚艶やかな髪は男性でありながら美しさを感じる。
枯れた老人だからか、存在感というか、覇気、生気。そう言った類を感じさせない。
如何にも寂しい雰囲気を醸し出していた。ただ、その目だけはまるで刃のように鋭かった。
しかし、そのような老人が何故、こんな人気のない場所にいるのだろうか。
不思議と不気味さは感じないし、幽霊の類ではなさそうだ。
「─────何故、其の様な哀しい目をしている?」
自分が何かを言う前に、しゃがれた声が問いかける。
「─────逃げたいのだな。過去から。」
腹の底を見透かされている。
その視線は、老人とは思えないような透き通った目だ。
逆上するほど気力もなかったが、その穏やかな声音に怒りも沸かない。
「浮世離れして久しいが、此処で出会ったのも何かの縁。」
「少しだけ、話をしよう。御前の気を紛らわすかは分からないが……」
「驟雨に汗水漬、濡れ鼠では風邪を引こう。付いてこい。」
老人は踵を返し、雑木林の暗がりへと消えていく。
初めてであったはずなのに、何故そこまでわかるのだろう。
分かりやすい表情でもしていたのか。疑問は尽きない。
だが、老人についていくことにした。
そう、何でも良かったんだ。
本当に気が紛れるかもわからないけど、この脳裏にこびり付いたトラウマを払えるなら、何だってよかったんだ。
バイクを置き去りにし、見向きもせずに自らも雑木林の暗がりへと消えていく────。
老人の背中を見失わないように、雨で抜かるんだ地面を踏み抜いてついていく。
整備されていないような、道とも言えないような道だ。歩きづらい。
それでも老人はすいすいと進んでいく。
非常に歩きなれているのか。体幹の通った姿勢は、老人ながら凛々しさを感じさせる。
「付いたぞ。」
老人の言葉に、足を止めた。
雑木林の奥、開けた場所にはあばら家が建っていた。
随分と古い建物だ。こんな場所に住んでいるのか。
浮世離れ、本当に言葉通りのようだ。
老人に続くように、中へと入っていく。
古い木材が敷き詰められた空間だ。
汚れや湿っぽさ、埃っぽさを感じないが何処か殺風景としている。
棚に箪笥、中央の囲炉裏に壁に立てかけられた刀以外に目立つものは見えない。
老人は座敷を上がり、囲炉裏の前に腰を下ろした。凛とした居住まいだ。
「来なさい。」
老人に言われるままに、対面へと腰を下ろした。
知り合いでもない手前、妙に落ち着かない。
そんな様子を老人は静かに見ていた。
「…………。」
静かな眼差しが見据えている。
「……酷い隈だ。寝れんのか?」
老人の言葉に、徐に自身の目元に触れた。
確かに寝ていない。寝れるわけない。
寝るだけでまた、あの光景を思い出してしまうから。
そんな事を考えると、また
臭いが鼻腔に充満してきた。
吐き気ごと押し込めるように、口元を強く手で覆った。
なんて無様なんだろう。嫌気が差してくる。
そんな自分の姿を、老人は─────。
「──────……。」
憐れむわけもなく、ただ静かに、穏やかに自分を見ていた。
同情されたかは、表情からは読み取れない。
だけど、悪い気はしなかった。
老人は何も言わない。視線に居た堪れなくなったわけでもない。
けど、自然にぽつり、ぽつりと口から洩れた。
あの日の夜の事も。
自分が犯した過ちも。
盆水から何もかもが、零れていく。
「──────……。」
聞いてる間も、最後まで聞いても老人は何も言わなかった。
パチパチと音を立てて燃える囲炉裏の炎の音だけが、大きく響く。
ただ、憐れみも同情も口にしない。静かに老人は、立ち上がる。
「来し方行く末、暗れ惑うか。名も知らぬ若人。」
老人はあばら家の戸を開く。
「私は然のみ情深く御前を激励する事は出来ない。」
「然るに、御前の悪夢を振り払うに事足りるかは分からない。」
「さやかに言えるのは、私なりに御前に気を遣おうと思う。」
それもそうか。突然こんなことを聞かせれても、普通は戸惑う。
この人は不器用なんだ。不器用なりに優しくて、自分を気遣おうとしているんだ。
「深々とした夜更けではあるが、少しだけ体を動かそう。」
「何、すずろうよりは良いだろう。来なさい。」
だから、この人の言葉に従おう。
藁にもすがる思いなのは、間違いではないから。
それからだ。老人、紫陽花 剱菊(あじばな こんぎく)の下で稽古が始まったのは。
彼は自分の事を多くは語らなかった。
だが、とても強い人物だということを身を以て知った。
この島で喧嘩に明け暮れていた。
異能を使った戦いは、命のやり取りに相違ない部分が多いと思っている。
だから、腕っぷしには自信があった。
忌々しい異名ではあるが、人々に恐れる程には強かったはずだ。
だが、老人剱菊の前では手も足も出なかった。
その技術も、力も、人間性も、何もかも自分は及ばなかった。
彼との運動──率直に言えば手合わせだが、何度やっても一本取る事も出来なかった。
倒れ伏す自分を嘲ることなく、あの夜と同じ静かな目で見下ろしてくる。
────まだやれるはずだ。
そう言ってきているような気がした。
悔しいと言えば悔しいが、それ以上に自分の中で燃えるような何かが、
憧れが芽吹き始めた。
しっかりと前を向いて、目の前の老人を見据えて何度も立ち向かった。
及ばずとも何度も、何度も立ち上がって、倒されては立ち上がる。
諦めの悪く、無様な姿だったかもしれない。
だが、老人剱菊は笑う事はなかった。
「其処迄。やはり御前は、技を盗むのが上手いな。」
稽古が終われば、褒めてくれた。
「怪我は無いか?」
不器用ながら、気遣いもしてくれた。
「……私の余命も後僅かだ。其れまでに、御前に全てを教える事はきっと叶わないだろう。」
そして、何処が寂しそうだった。
剱菊との稽古は数ヵ月続いた。
おかげで、あの悪夢に悩むことはなくなっていた。
後ろを振り返らずに、前を向くことの強さを教えられた。
優しさとは何か、という事を教わった。
それらは全て、言葉で伝えられたわけではない。
本当に短い数ヵ月の間に、心で、体で教えられた。
それでも尚、別れと言うものはやってくる。
剱菊と出会う前と同じ、雨の降る夕暮れ。
自分があばら家に訪れた時、老人は静かに息絶えていた。
言葉を発する事はなく、静かに囲炉裏に向かって、何も言わない。
まだ教わりたい事は幾らでもあった。
まだ彼と共に過ごしたかった。
剱菊自信が言ったように、それはもう叶わない。
だが、また失ったとは思わない。彼の教えてくれた強さが、自分の心には残っている。
それはきっと、中途半端なものなのかもしれない。
だけど、自分なりにやってみよう。
時には間違いを起こすかもしれない。
貴方の優しさも強さも、教わった全てを引き継いで前を向いて歩こう。
強く決心した表情を浮かべ、綺麗な目元を強引に腕で拭った。
「……また来るよ、爺さン。」
────夕立晒しの悲しみを、拾うものなどいない。