
──目を開く。
息を吸い、そして吐いた。両手を目の高さまで持ち上げ、握り、そして開いてみる。
感じた。握り込まれた指や爪の感触、暖かさ。その圧力。
こつこつと、ブーツのつま先で地面を叩いてみる。
地面の固さを感じた。杖がなくとも、しっかり立てる。
「……っふ。」
息を吐き出すように、笑う。
こちらの自分は、まだ動ける。“あちら”の自分は着実に伽藍に冒されてはいるが、それでも行き着くべきところへ歩み続けている。
あとは、間に合うか否か──。
『葛子さま。』
思考に閉じた身のうちに声が響き、ふと顔を上げる。連れ合いたちはおのおの会話を楽しんでいるようだ。葛子に話しかける者は、今はいない。なれば……。
『さとりか。どうした。』
離れて行動している、あやかしたちからの念話。さとりはこうして、心を通わせる術に長ける。
『また、以前のようなあやかしを見つけました。陣営に関係なく喰らい、その身から陰陽のにおいを漂わせている。おそらくは、保名さまの造り出したものかと。』
その名を聞いて、葛子は僅かに目を伏せる。しかしそれも一瞬のこと。
『あいわかった。合流しよう。』
葛子は連れ合いに休憩を提案し、あれこれと理由をつけてその場を離れた。
△▼
チナミ区、Oー16番地。通称、“梅楽園”。
荒廃した街の景色の中にあって、梅の花が美しく咲く様は優美さよりも前に妖しさを感じさせる。
ぼんやりと明るい並木の道で、ざわざわと風が流れる音がした。
「──こんな時でなければ、見惚れていたのやも知れませんが。」
ぽつり、つぶやくは黒髪の少年。前髪が片目を隠すように長く伸び、男としての身体の性徴を迎える前の顔立ちは、何処となし中性をはらむようである。背丈はあさなと同じ程度。葛子よりも一回り小さい。
装いは黒地の甚平に下駄姿。やんちゃ盛りの年頃に見えるその姿から、発されたのはひどく落ち着いた声。 あやかし、“さとり”。心を読み、心を手繰る。
そう伝えられ、畏れられた旧きモノである。
「“むこう”の梅楽園も佳いものじゃ。いつか、皆で行きたいものじゃな。」
葛子が微笑むと、おろちは鼻を鳴らす。
「此方で言っても詮無きことだろう。どうせ覚えてはおらぬのだから。」
「きっと、このハザマでこのような話をしたことを覚えておらずとも、皆で行こうとなる気がします!」
想像したのか、あさながくすくすと笑いながら言う。ね、と雪女に同意を求めた。
「いや、あーしらはともかくおろちさまは無理っしょ。ヒトのかたちにはなれないんだし?」
苦笑して返す雪女に、おろちはシュルシュルと吐息を漏らした。
「興味はない。留守を預かる。」
「えぇ~。だからあそーいうぼっちムーヴ禁止って言ったじゃん? あーしは花見すんならおろちさまと一緒がいいの~。」
「……あまり葛の君を困らせるな、心遣いは受け取っておくゆえ。」
「雪女様。葛乃葉様を困らせてはいけません。」
「うぇ、やまびこもそっちの味方なの!? もー……まぁいいけど。」
いいけど、と言いつつも不満げな雪女。おろちはそんな彼女をしばらく見、二度目のため息を吐いた。
雪女、と声を掛ける。
「梅の花を一輪、持ち帰れ。その香りだけで充分に愉しめよう。
その時は雪女……共に、酌を交わそうぞ。」
「んっ! マジで? おろちさまのお酒のめんの? やった~いくいく絶対付き合う! 朝まで呑むかんね~!」
はしゃぐ雪女。おろちは呆れたようで、けれど珍しくも小さく笑う。
「……ふふ。だから、覚えてはおらんだろうと言ったろうに。」
「だがまあ、そうだな。彼方でも同じ約束をできたなら、佳い。」
さとりが笑みを浮かべた。「佳いですね。」とやまびこがうなずく。「くずこさまも一緒に行きますからね!」とあさなが稲穂の女にじゃれついた。
葛子が浮かべる笑みは、安らいでいた。
「──うらやましい。」
梅の香に埋めて、か細く呟く声。
男のもの、女のもの、子供のもの。幾重にも幾重にも重なって聞こえてくる。
「囲まれていますね。」
さとりが辺りを見回し、いかがいたしますか、と葛子を仰ぐ。
「……梅に魂を縛り付けられておるか。女子供も容赦なしと。
ヒトはみな、並べてわしに追い縋るための材料に過ぎぬ、か。保名さまの考えそうなことじゃ。」
梅の咲き誇る地面から、どっと土塊(つちくれ)が巻き上がる。沢山の手が、地面の下から突き出していた。
芽吹いた新芽が幹に育つのを早回しで見ているかのように、手は伸び、腕となる。本来は肘があるべき場所にそれは無く、何十、何百という数の白い腕は病んだ植物の蔓のようである。
「うらやましい。あたたかい、わらっている。ああうらやましい。
わたしたちはこんなにもこわくて、いたいというのに。」
声が聞こえる。悲痛と怨みにまみれた、救われない怪異の唸りが。
「……ヒトよ、同情しねーかんな。そうなっちゃったらもう、同情なんて感情はお前らのためになんねーしさ。」
雪女が鉄扇を懐から取り出した。ついた吐息が凍り付き、辺りには霜が降りはじめる。
「くずこ姉ぇ、あーしがやっからね。姉ぇのその力、使う度に姉ぇの身体を喰い散らかしてってる。マジ手出し要らんから。」
朱色の瞳は、深雪の白銀のその色を変え。
葛子は頷く。その前にあさなが陣取った。
「葛子さまの護りはお任せくださいっ!」
「あっはは、とーぜん。んじゃいくかんね。おろち様、さとり、やまびこ。」
パキパキパキ、と全てが凍てついていく音。
おろちは無言で、白着物に薄桃の上着を着た雪女の横に並び立つ。雪女の後ろには、彼女と全く同じ姿形の人物が一人。
「やまびこの“それ”、毎度慣れませんね。心の中まで一切の全てを写しとるのは止めませんか。」
「止めません。」
にべもなく……というより、直前の相手の発言を繰り返すことしかできない相手の返事に、さとりはため息を吐いた。
「そうですか。まあ──」
その背から、背負っていた一丁の長銃を下ろし、クリップから弾薬を装填する。
「いいんですが。」
「あんたの“ソレ”の方がよっぽど慣れないんだけどね……。」
ボルトレバーを難なく閉鎖するさとりが苦笑した。
「じゃ、行くか。くずこ姉ぇのためにさ。」