黒い霧。
あるいはそのようなもの。
ふいにわき出したそれに包まれ、一瞬、ポカンとしたような表情を浮かべる。
そこに視えるものに、あるいは見えてしまうものに。
 |
「あ、……」 |
その頬から血の気が引いていく、みるみるうちに青褪める。
壁際に身体をもたれさせていた両脚が不恰好にぐらつく、もつれる。
横倒しになった身体のとなりに、ごとりと頭を打つ重い音。
地面の上に髪が散らばる――気絶。
あまりに呆気のない。
***
そこに視えるもの。
それは具現と召喚の技の歪な混淆によって動かされているだけの『死人』には、いくらか荷がかち過ぎるものだった。
もはやとうの昔に殺され、ただ『主人』にとって都合よく歩き回るしかない《残り滓》の身には。
この死者の皮の主人こそは、ありとあるときに口を開く無痛の深淵、絶望そのものであったゆえに。
「なぜ?」
“『彼』の罪は、”
“かつて求められた問いに答えられなかったこと。”
必要なことばかりがあった。
求められることばかりが。
これまで、彼はいくつもの姿を借りてきた。
人、獣、鳥、魚、虫、光、石――いくつもの、何匹も何頭ものそれらに宿り、何人もの彼らとして生きてきた。
(そしてあるいは死者の皮、その亡骸の外面を)
“たすける”という、それだけのために。
どれほどの断片と断章のさなかにあっても、彼は応え続けた。
それぞれに固有の記憶はずたずたにほころび、もはや瞬間としてしか残っていない。
ただ。
ただ、ただ!
裳裾をつかむ手と手。祈りと言葉。ひれ伏す影。老いも若きも。微笑みと涙が混ざり合い、死後の約束におびえながら――彼は辛抱強く応え続けた。
どれも無下にすることなどできなかった。
押し寄せる願いと祈りを、彼は力の及ぶ限りに叶え続けた。
彼はしだいに希薄になっていった。もともとあった『彼』というものは。
寄せられる願望に応えるために、むしろ自我は邪魔でさえあった。
祈りへの応答が恣意的なものであってはならない。
彼は選び取りたくなかった。優劣をつけるなどという残酷を、彼は己に許したくなかった。
いつの間にか、彼は己というものを放棄していた――自身である、ということを。
押し寄せる祈りと願いが彼の魂を洗い流し、すっかり漂白してしまったのだった。
もはや祈りと願いこそが、彼というものの力の源でさえあったゆえに。
《彼》は忘我の果てへと、汚泥のように追いやられた。むなしく透明な悦びと共に。
どれほど惨めであっても、どれほど汚れ、醜くなろうと、彼はそんなことは一向に構わないのだった。
満たせないこと。
それは恐怖であった。
けれど物は風化し、人は、命はついに死ぬ。
こぼれていくものがある。
取り落してしまうものが。
どれほど手を差し伸べても、彼はそれらに間に合うことができなかった。
昨日助けた子供が今日は死に、今日救った娘が翌月に死ぬ。
明日の男も死ぬだろう。
翌日、翌月、翌年。もしかすると五年後。十年後、百年、千年ののち。
彼が自身をくべ、削ぎ砕いて施すだけでは、人々の渇きは癒せなかった。
それでも彼は彼というものを擲ち続けた。
ほかに取る術とてなく。
祈りの声が届いただけ、その願いが彼を満たしただけ、それらと骨がらみになった怒りと憎悪が呪いの声とともに降りかかる。
稲妻のように叩きつける罵倒、恨みつらみ。
そのたびごとに彼は小さくなっていった。
細かくすり減り、より本来性を失って。
それでも、「どうか」と。
たった一言縋られることは、あまりに甘美なことだった。
もはや何もかも手遅れとなった絶望の底から呼びかけられ、求められ、“語りかけられる”ことは。
そのとき、彼は石の像としてそこにあった。周囲を覆う、薄暗い天幕に守られて。
いつからそうしていたかは知れない。
目を覚ましたときにはもう、そこに『あった』のだった。
珍しいことではなかった。あるときは獣、あるときはこうした像のなかにいることにふと“気づく”。
いつの間にかそこに宿っている――彼はただ、示される祈りと願いに引き寄せられるものであるゆえに。
彼のいたそこは、《崇拝の地》と呼ばれていた。
あちこちに垂れた華やかな縫い取りの布地に、床の上に並べて点されたいくつもの火。
その輝きの向こうにひれ伏す、人々の姿。その声。
“祈り”。
人々はよく彼の名を呼んだ。
この土地の誰かが唱え始めたその名と、甘い祈りの響きに彼は酔った。もはやこれといってひとつの名を持たない彼ではあったが。
数々の言葉とうやうやしい儀礼を通して、像に侍る人々の期待と信頼が、温かく放射されているのを彼は感じた。
人々は誰も身ぎれいで、灰色の瞳に豊かな赤い髪を垂らし、孔雀の羽のように軽やかな衣を身に着けていた。
多くの人間が黄金に惹かれるのに反して、ここではみな銅や銀でその肌を飾っていた。飾りはどれものたうつ蛇を模したもの。
人々はこまやかに彼の世話を焼いた。もとい、彼がその内に宿っている像に対して。
そして”祈った”。
彼は応えた。これまでと変わらず、持つものは惜しみなくすべて差し出して。
人々は穏やかだった。彼が間に合いきらずとも、彼を責めなかった。彼は幸福だった、これほど長く求められることはかつてなかったために。
だから打ち寄せる祈りの裏側も、そこに覗いていたはずの意味についても、考えもしなかった。もとより、思うこと、考えることを果たすための『彼』は、彼のなかにもうほとんど残されていなかった。
――あるとき。
ひとりの小柄な背が、天幕をくぐって入ってきた。
ふと、彼はあたりの静けさに気づいた。いつもまめまめしく出入りする人々も、今日ばかりは姿を見せない。
目の前に立った人間は、ふだん天幕に出入りする者たちと明らかに違っていた。
少年、あるいは青年。としのころは十代か二十代そこらだろう。
丸く結い上げた金の髪に、真っ青な目。
こうした色はしばらく目にしていなかった。
ここへ出入りする人々はみな、赤毛に灰の目を持っていたから。
細い身体に不釣り合いな鎖帷子を着け、海豹の皮で作ったとおぼしき靴を履いている。飾り気はない。いつも見かける蛇はどこにもいない。その背には、長い柄の剣まで負っている。いや、剣ばかりではない。弓の影さえ見えている。腰には矢筒と、いかにも重たげな手斧。
そして腕には一本の長槍を持っている。
少年は彼に何も求めなかった。
祈りはなかった。
どころか、これは、
相対した少年の口から、雲一つない透きとおった空のような声がこぼれる。
「”なぜ”?」
そしておそるべき素早さで槍を振り上げ、彼を打ち据えた。
とっさに身をよじる。
彼は、台座から少し離れたところへごとりと落ちた。落下による衝撃で、石像は半ば地面にめりこむ。
彼はぼんやりと、土にまみれたまま少年を見上げた。
その手のかざす槍の穂先のひらめきを。
ひどく滑らかで優雅な腕のしなり。
今度の一撃には、先ほどのような甘さはなかった――憐みにも似たものは。
硬く強張った音をたて、像が割れる。
彼は、するりとそこから剥離した。
ほとんど反射的に宙へ逃れる。
身体を失うことには慣れていた。
けっきょくのところ、肉体というものは彼にとって仮宿に過ぎない。この石像もそれは同じことだった。
彼は空中に伸びあがってそのまま、いつものように立ち去ろうとした。ここではないどこか、何者かに祈る誰かを求めて。
身体を持たない間、彼の力は目減りしていくが、それとてもささいなことだった。彼はこの地で大きく肥え太っていた。人々の祈りと願いによって。
少年の足音がする。
それをぼんやりと聞き取って、少年が彼を追ってきていることに気づく。
もはや透明、“あってなきもの”である彼を、少年はどうしてか『視て』追うことができるようだった。
しかし追えたところで、その手に掲げる槍も、剣も手斧も弓も、彼とその本性を害することはできない。石に過ぎないかりそめの身体を壊すことはできたにせよ。
やがて彼はゆるやかに、漂う煙のように天幕の外へ出た。
そしてそこで、前に進むことをやめた。
そこには、
夥しい量の血と命とが流されていた。
そこに倒れていたのは、彼がいる天幕に出入りしていたあの人々では“なかった”。
物のように投げ出され、積み上げられたいくつもの亡骸は、
“金の髪に青い瞳”をして、
殺されていた。
ことごとく。
みな同じやり方で、短剣で首を裂かれて。
よく見れば、山と転がった死体のところどころに、見知った顔が倒れている。
赤い髪に灰色の目。蛇を飾った人々。
彼に祈っていた人々が。
その手に『血に濡れた短剣』を握ったまま、死んでいた。
とうに忘れたはずの恐れとともに振り返る。
血が、
――引きずり出されたはらわたが。
彼が置かれていた天幕のなかに続いていた。
その向こう、垂れた布の間に覗いて見える、割れて砕けた石の像もまた。
天幕のなかには、殺された人々の血と臓物が半ばどす黒く腐りながら、累々と積み上げられている。
ほかでもない、それこそは彼に捧げられた生贄の供物なのだった。
(なぜ)
彼は震えた。
恐ろしかった。
いまや、何もかも。
背後に足音。
逃れようもなくあの少年の声が、
「なぜ?」
彼は叫び声をあげた――言葉にならない言葉、声にならない声で。身体を失ったために上げることの叶わなかった、それは断末魔のごとき悲鳴だった。
そして彼は崩れ始めた。
端から、粉に。乾いた泥の、容易く水に溶かされ洗われるように。
“彼の罪は、かつて求められた問いに答えられなかったこと”。
神である彼は愚かだった。
痛みがあった。
彼は応えるべきではなかった。求められるべきではなかった。
憎まれ恨まれ、呪われて当然のものに過ぎなかったのだった。そうと知らずに彼が犠牲にしてきた、見棄てた、見放してきたすべての者たちから。
彼の前にはもう何も残されていなかった。
ただ、その絶望にふさわしいだけの痛みばかりが、
***
ぴくりとも動かない――いくらか不自然なほど、倒れたまま。
胸が上下している様子もなく、指先がゆれることもない。
見開いたままの目。
散らばった髪の下、地面には、緑色のどろりとした何か。
青リンゴを砕いたような。
緑色の液体は、頭のあたりから拡がっている。
 |
「う、」 |
しかしそうして何一つ動かないまま、横倒しになった身体の内側から声がもれる。
聞こえてきた足音に『応える』ように。
ぎこちない動きで腕が伸びる、息の止まったまま。
焦点の合わない両目が、この場にやってきた助けに『応じて』回り出す。
ようやく深々と息を吐き出す、そうすることを思い出したというように――あるいは『人目を気にする』ように。
”応えること、応えようとすることが、彼を動かす主人の本質的な働きであるゆえに”。
ぼうっとした顔で駆けつけた相手の顔を見つめる、差し出されたその腕を。
 |
「……。 これは、……『ほんとのこと』ですか?」 |