
暦は春を示すがまだ朝晩や吹く風そのものが冷える日々が続く中、ウィルヘルムは下宿の一室へと足を運んだ。手には、粥と麦茶の乗ったお盆を携えて。入るぞ、と一言断れば襖を開く。
「あ……ウィル」
「調子はどうだ、クリス」
「んー……ちょっと良い」
でもまだダルいかな、と苦笑いするクリスはどこかまだ気怠げだった。かわいいうさぎ柄の寝間着姿で布団から身を起こす動作も、どこか鈍い。のたのたとした仕草で枕元のお盆においてあった体温計で熱を測る。電子音がして取り出したものに、37度の文字を見て眉根を寄せた。
ここ一ヶ月以上、クリスは慢性的な発熱に悩まされているのである。咳も鼻水も無く純粋な発熱だけの症状なので風邪という訳ではないのだが、かと言って解熱剤などで下がる様な単純なものでも無いことをウィルヘルムはよく理解していた。この不調、何も今回が初めてという訳でもないのだ。
「一度で落ち着くかと思ったんだけどなぁ……また熱が出ちゃった」
「はは。まあぁ、最近お前の生活は色々変化が大きかったから、負担がかかったのかもしれないな。前の時もそうだったじゃないか」
「でも、その間動けなくなるのはやなんだけどなぁ……」
「仕方ないさ。世界に馴染むための負荷らしい、って前に話したろう?」
「それはそうなんだけど……」
「とりあえず良く食ってよく寝て、身体が慣れたらまた動けるようになるさ」
むぅ、と拗ねたように頬を膨らませる子供に少し冷ました粥を差し出してやる。それを見て、渋々口を開くところへと放り込んでやれば、ゆっくりとした咀嚼の後で飲み込む顔は薬を飲む時の様に苦々しい。最近は寝たきり状態が続いていて、お腹が空かない関係かあまり食欲もわかないらしい。食べてもあまり美味しく感じない、とすまなさそうに言う様子にウィルヘルムは苦笑する。
クリスの体調不良は、病が原因ではない。あの子供の身体が、普通の身体ではない……ただそれだけの理由で時折おこる、不具合のようなものだ。そう、不具合。まさしくその言葉が何よりも正しい。
その身体は、あの子供本来の物ではない。人造──と言って良いのかは少々怪しい。何せ、造りあげたのは人外なので──の身体、つまり偽物である。クリスは何らかの理由があって本来の肉体と分かたれた魂だけの存在なのだ。しかしむき出しの魂程にか弱いものはない。だから、本来の身体に近い造り物の身体に魂だけを収めているのが現状なのだった。
とはいえ、造り物だというその身体の造りや動きは異常なほどに生身に近い。一般的な活動はもちろん、食事もできれば睡眠もするし、暑ければ汗をかき寒ければ鳥肌が立つ。幾つかそれでも搭載されていない機能や欠陥点はあれど、それだって致命的な問題とは言えない程度のものだ。
だがしかし、その数少ない問題のひとつが現在の状況を招いているのだが。
(疑似外殻、だったか……それを造り出したヴィーズィーとは、連絡が現在つかないからな……正直どうしたものか……)
最低限の知識は与えられているが、その細かなメンテナンスや不具合に対する対処法をウィルヘルムは知らない。もちろん、クリス当人もその辺りはさっぱりであるという。ならば造り手に聞くのが一番なのだが、その当人とはこのイバラシティへと転移する前日に話した際から連絡が取れていない。
連絡が取れない事自体は別段珍しくもない──時には数ヶ月音信不通でアチコチふらつく御仁である──のだが、流石に年単位でとなると不安を感じない訳ではない。何かトラブルに巻き込まれている訳じゃないと良いのだが、とため息を付きつつウィルヘルムは粥を必死になんとか食べようと努力するクリスを見た。
その身を蝕む発熱は、ウィルヘルムが知っている限りでも初めてという訳ではない。偶にこの子供はこうして体調を崩す。大体は、異なる世界へと渡った後ぐらいが多かった。何時だったかの界渡りの時にヴィーズィーに言われたことがある。世界によっての理や環境の違い、そういった新たな環境が与える新鮮な情報の洪水が、人造物であるクリスの身体を時に痛めつけるのだ……と。
(未知の環境に適応しようと過剰駆動する疑似外殻のオーバーヒート……とか言ってたか。全く、この不具合はどうにか出来ないもんだかな)
その負担を減らしてやりたくとも、下手に弄れば余計な不具合を招く場合もある。だからウィルヘルムは、こうしてクリスを寝かしつけて静かな環境で現状に慣らせるしかないのだ。歯痒いばかりだが、余計なことをしてその生命を脅かす訳にもいかない。
だからこそ、ヴィーズィーにその辺りを解消してほしいと思っているのだが……。
「やれやれだな……」
「? どうしたのウィル」
「いや、何でも無いよ。……食べられたか? クリス」
「うん、なんとか」
お腹いっぱい、と頷くクリスに今度は麦茶をしっかり飲ませつつウィルヘルムは優しく微笑みかけた。
「水分が取れたら寝るんだぞ。氷枕はまだ冷たいか?」
「まだ大丈夫だよ……ウィルは心配性だなぁ」
「俺だけが心配性みたいにいうなよ。メランやノクスも心配してるぞ?」
めにゃーん、と応える様に鳴く黒猫の声。ウィルヘルムの使い魔にして飼い猫であるこの魔性の黒猫は、クリスに昔からべったりだ。飼い主以上に慕っている──というか、飼い主には非常にツンツンな所が多い気がする。そこも可愛いのは確かなのだが今ひとつ釈然とはしない──と言っても良い。熱で寝込み始めた頃から、ずっとこの部屋で見守っているのがその証拠だ。
その黒猫に乗られて少し凹んでいるの黒いものがある。うさぎのような長い耳と小さなコウモリ羽。そしてつんと尖った尻尾に短い四肢という、デフォルメの効いた黒うさぎもどきのぬいぐるみ。これが『ノクス』だ。
そろって子供の枕元でずっと控えているのだから、まあ確かに心配している様に見えなくもない。
それを理解してか、クリスはくすくすとちいさく笑った。飲み終えたグラスをウィルヘルムへと返しつつ、そうだねと呟く。
「メランやノクスのためにも、早く良くならなくちゃね……」
おやすみ、と再び布団に戻る姿を見守ってからウィルヘルムは立ち上がる。また後で様子を見に来る、とちいさく告げてから部屋を出て、そしてやっぱり小さくため息を吐いた。このタイミングでの不調はやっぱり見過ごせたものではない。
「とにかく、何とかしてヴィズを見つけないと……だな」
クリスのためにも。
そんな言葉を飲み込んでウィルヘルムはその場を後にするのだった。