
乾いた風に髪が揺れる。濁った、赤黒い空の下に広がる都市は、知るものとは大違いの形を成していた。崩壊し、荒れ果て、まるでそれは都市が滅びた後のよう。自然物も多少はあるが、それでもあまりの格差に目眩がする。
「これが、ハザマ……?」
そんな荒れ地の只中。
立ち尽くす子供がポツリと呟く声だけが、場に響いていた。
この世界に滞在を初めて一年を過ぎた頃。クリスは、ウィルヘルムと共に不思議な夢を見ていた。まるで白昼夢のようなその体験の中で語られていたのは、アンジニティという異世界によるイバラシティへの侵略戦争の話。そしてこの夢を見た不特定多数は、その争いに否応なく巻き込まれたという事実だった。
白昼夢を見たのはお休みの日の昼食後で、少しウトウトとしていた矢先だったのでクリスはウィルヘルムに問うたを覚えている。彼の青年は、クリスの知る中でも一番身近な知恵者だ。何より、クリスと共に行動する以前は異界を渡り歩いていたとも聞く。件の侵略者側についても何らかの情報を持っているのではないかと推測したのだ。
「ねぇ、ウィル。ウィルも夢に見たなら覚えてるよね? ……アンジニティって、どんな所か知ってる?」
「嗚呼、知っている」
即答したウィルヘルムの顔は、酷く険しいものだった。苦虫を噛み潰したような顔で続ける。
「といっても、俺は行ったことは無いが。《否定の世界》アンジニティ……あそこは『世界から否定され追放された者が棄てられる世界』だ。それを称して、世界の掃き溜め……とも呼ばれているが」
「棄てられる世界……?」
「何らかの犯罪を犯したもの、或いは色々な理由で世界を追われた者……そういった奴等が落とされる場所、という感じだな。偶に迷い込んでしまう者もいるとは聞くが……基本的には、危険なものを封じている世界とも言える。その辺りは正確とは言えないが、少なくとも、ソコにいるのは穏やかで心優しい奴ら、なんて事はまず無いだろう」
しかし、と複雑な表情でウィルヘルムは唸った。
「アンジニティは基本的に、入れば出ることの出来ない牢獄のような世界だという。普通は外部に干渉なんて出来ないと思っていたんだが……」
「わーるどすわっぷ、とかいってたね」
「スワッピングというのは交換する、という意味がある。ワールドとつくなら、世界の要素の一部をごそっと交換する、という事なんだろう。……アンジニティは環境も悪く安息の地も無く、内から外への道は完全に閉ざされている世界だという噂を聞いた事がある。それが正しいかは不明だが、外を侵略してでも出たいと思う者がいても不思議じゃないだろうな」
やれやれ、とばかりにウィルヘルムはため息を吐いた。
「せっかく穏やかに暮らせそうな世界だと思っていたら、とんだ災難に遭遇してしまったみたいだ。しかも、先の夢が正しいなら、俺もお前もこの侵略戦争の参加者になってしまったって事らしい」
「あの夢を見れたヒトは皆、ハザマって場所に呼ばれるらしいっていってたもんね」
「純粋な世界間移動、というのとはまた違うんだろうが……それにしたって2つの世界から同時に多人数を同じ亜空間に召喚するってのは、そう簡単な事じゃないしトンデモナイ話だぞ」
ウィルヘルムもクリスも、世界から世界へ旅を続けているからこそその規模や無茶苦茶さには多少理解が出来るものがあった。自分達が世界渡りをする際でも準備はかなり必要で、少人数でも一苦労するというのに。こ一体どういう技術を使っているのか想像もつかない。
このイバラシティに来る際に世話になった、あの謎の運び屋あたりならば何かわかるのかもしれないが……連絡方法すらわからない存在に情報を頼るわけにもいかないだろう。
「とりあえず、ハザマでもお互いになんとか合流するのが先決だろうな。侵略合戦のある場所なら、多分荒事もある。単体で動くのは危険だろう」
「うん、わかった。ボク、向こうでもウィルを探すよ! ちゃんとドコに居ても見つけるから!」
「……いや、まあ、俺もそりゃあ探すが……何だか、俺が迷子にでもなったみたいな言われ方だな……」
「あ、あれ!?」
とりあえず、何時そのハザマへの喚び出しがあるかはわからないのでお互い注意しよう。そう約束し合ったのが少し前の話だ。
荒れ果てたイバラシティを思わせるハザマの景観は、想定していたものとは随分と違ってクリスは戸惑っていた。まるで世界に大惨事でも起きたその後のような光景には身が竦む気がする。ただ、その中でも怯えて蹲ってしまうほどにクリスは弱くはない。
長い、腰まで伸びる金の髪を束ねる白い布地の髪留めに手を伸ばす。そのまま、端を掴めば強く引いた。しゅるりと手の動きに従い解けるその白布に、鮮やかな紫炎にも似た輝きが走る。ソコに刻み込まれているのは、ひとつの術式だった。中身は単純だ。
この呪布を身に着けた者の姿や能力を、ヒトへと擬態させる。
それだけだ。
ばらりと解けて散らばる後ろ髪の末端やもみあげの先端から、鮮やかな色彩が広がる。濃い紫紺から青、そして鮮やかな翡翠へと転じるグラデーションは染め抜いたものではなく生来のものだ。そして頭部の毛束の中から耳が伸びる。此方も鮮やかな色合いだが、何よりその形は獣の様な形をしていた。明らかに、ヒトとは異なる器官だ。
クリスは、一般的に『人間』と呼ばれる種族とは異なる生き物である。異能が溢れているとはいえ、イバラシティで生活するにおいてこの姿は奇異の目を引きかねない。その為にと施された対策だった。
しかしあの呪布は身体的な能力もヒトのそれへと擬態させる。それでは、この危険なハザマの地では戦う力を万全には発揮出来ないと判断しての行動だった。勿論、此方側でイバラシティで出来た知り合いの誰かに姿を見られる可能性もあるが、ハザマでの記憶はイバラシティでは継続しないという情報があったし大丈夫だろう。
「早く、ウィルと合流しなくちゃ……」
確かに自分は荒事も普通な生活をしていた経験があるとはいえ、ブランクもある。しかもただの動物相手ならともかく、こんな異質な世界に現れる危険な存在相手に一人で立ち向かうのは無謀というものだろう。まずは確実に味方と分かる存在と合流しなければ。
…──そう思ったことを、今でも覚えている。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「何度見ても慣れないね、この空」
濁った泥水に赤い絵の具をぶちまけたような、お世辞にもキレイとは言い難い空を見上げてクリスは呟く。既に数回目になっていたハザマへの来訪は、しかしあまりにも実感が薄い。ハザマに喚ばれるまでの間にイバラシティの生活を挟むとはいえ、妙に他人事に感じるのは今こうして吸う空気も世界の雰囲気も何もかもが異なってくるからだろう。
「慣れても困る。こんな空、普通じゃないしな」
苦笑いをするのはウィルヘルムだ。あの後無事に合流したのがついさっきのようにも感じるが、間には無数の日々の記憶があるから微妙に混乱してしまう。お互いに揃ってからも少しずつこのハザマの探索を続けているが、コチラの世界の生物はどれも異質なものが多い気がしなくもない。
「ともあれ、何とかこの侵略戦争、イバラシティに勝ってもらわないと困る。ワールドスワップの対象として選択されてる関係か、世界間移動が封じられているようだからな」
「負けちゃったらアンジニティに飛ばされちゃうかも、ってことだよね」
「嗚呼」
こんな争いに関わらずに世界を移動してしまえば良いのではないか、という案を試そうとして判った事実だ。どうやら何か、不思議な干渉があって現在、ウィルヘルムは世界間移動を出来ないという。クリスには世界間移動の手段はなく、あの運び屋との連絡もつかない。となれば、この争乱をなんとか乗り切るしか無い、というのが現状だった。
「勝てるのかなぁ……」
「さぁ……まず勝ち負けの具合いが分かりにくいからな。世界影響力がどうとか言ってたが。まあ、どうあれ、俺達は俺達で何とか進んでいくしか無いって事だろう」
そんなウィルヘルムの言葉に、クリスはうんと一度頷いて返すのだった。