
住処を定めてからの日々は、怒涛のごとく過ぎ去る。
ウィルヘルムがイバラシティの情報を集めて調べ上げ仕事を見つけて生活の基盤を整えていく間、クリスは日常的な交流が出来る様になる努力を積み重ね、少なくとも会話そのものと簡単な読み書きとぐらいはこなせる様になった。
その間、約一年。二人にとってはとても穏やかで静かな時間が流れていたのは確かだ。
世界間移動という、未だに慣れない旅路の疲れや新たな世界への適応の関係でクリスが体調を崩す……などと言ったトラブルもあったが、そんな細やかな問題以外は心配していた様なトラブル──例えば何らかの争いに巻き込まれたりだとか、世界に適応出来ず新たな場所を探す羽目になるとか──も無かったのがその証拠である。
この長いようで短い期間は、文明度の高い世界に慣れ親しんだウィルヘルムと違い、恐れからくる警戒心が高かったクリスにとっても良い準備期間だったらしい。
今では、簡単な家電──例えば炊飯器だとか電子レンジなど、家事に直結するものが多いのだが──程度ならば説明もなく使い方を把握している様である。スマホの様な最新鋭の機械にも自発的に使用をチャレンジをするようになった姿からして、使いこなせるようになるのも時間の問題だろう。
「そういえば学校はどんな感じだ?」
「え? どんなって?」
「いや……こう、馴染めているかなって。中途半端な学年への転入ってのもあって心配なのさ」
「あはは、ウィルは気にしすぎだよー」
冬も深まってきたある日。自室用にとウィルヘルムが買ってきて組み立てたばかりのコタツに、早速潜り込みながらクリスは苦笑を返す。保護者役を務める質問した当人はというと、畳の上に座り込んで黒猫の爪を切っている真っ最中だった。
とはいえ、ウィルヘルムの心配も当然ではあろう。この世界に移動してきて少しした頃に、一応転入手続きを行ったことで熾盛天晴学園──シジョウアマハラガクエン、という。やたら名前がややこしいので、略称であるハレ高としか呼ばないのだけれど──の正式な生徒となっていたクリスではあったが、当初は体調不良や言語がまだ完全に覚えられていない問題もあって暫く休学状態だったのだ。今はその辺りの問題も多少は緩和してきたこともあって、通学を開始している訳だが。
「そりゃあまあ、勉強はまだまだついてけてないなって所があるけど……言葉はちゃんと通じてるもん。大丈夫だよ。書いたりするのは大変だけど、ボク、その点では記憶力が良いからね。休み時間とかにちゃんと全部ノートにまとめてるからさ」
その場で質問されたりすると正直、科目によっては──例えば漢字問題とか──かなり困る場合もあるが、言語周りが不自由という事情は教師にも説明しているので多少温情をもらえている。時間はかかるが、何とか勉強はこなせている……というのがクリスの体感した現在の学生生活への評価だ。同じ学校に通っている人たちも皆、親切な人ばかりで心配するほどの事もない。
そうクリスが説明すれば、そうか……と少し安心した様子でウィルヘルムは表情を緩めた。
「勉強でわからない部分とかは俺でも教えられるやつが幾らかはあるから、その時は遠慮なく聞いてくれよ」
「でもウィルも仕事で忙しいのに」
何の仕事をしているのか知らないが、ウィルヘルムがこのイバラシティで働いているのは確かだ。偶に遅くなったり、逆にものすごく早く出掛ける事もあるのでなかなか変則的な勤務の様である。クリスとしては、ウィルヘルムだけに働かせるのは申し訳なく感じるし自分も働けたら……などと思いはするものの、どうもイバラシティというかこの世界では『子供は勉強が仕事のようなもの』という認識が一般的であるらしい。
試しに羊の放牧の見張りだとか、或いは畑の整備の手伝いだとか無いのかとウィルヘルムに聞いてみたら、苦笑しながら「そういうのは専門でやってる人がこなしていて子供だと体験学習とかそういう形になってしまうだろう」との事だった。働くとしても、そういう仕事をする人の家族とかでないと本格的には無理だろう……とも。
そんな訳で、家計を支えるという事を1人に背負わせる形となっている現状、勉強まで面倒を見させるのはさすがに……とクリスが思うのも当然といえば当然なのだった。実際、仕事で疲れている所で教師役までさせるのは申し訳ない話ではある。
が、当の本人はというとそんなことはないと穏やかに笑うのだ。
「俺もクリスが学ぶのと一緒に勉強させてもらっているのさ。この世界は俺にとっても未知だし、一応ざっくりと生活に支障がないレベルの情報は仕入れていても細かいことはわからないしな。かといって、情報端末を叩けば嫌というほどに情報は溢れている。学ぼうにもドコから摘めば良いのかもわからないくらいにな。だから、こういう教材があってそれに従って少しずつ学べる学校方式の学習ってのは丁度いいのさ」
「うー……まぁ、ウィルがそういうなら良いけど」
「ははは。とは言っても、わからないやつとかもあるからその辺りは勘弁してくれ」
特に得意なのは数学系とかかな、と言いつつウィルヘルムはパチリと爪切りを再開する。黒猫──メラン、という名前だ。ウィルヘルムの使い魔という奴らしい──が「めにゃー……」としおらしい鳴き声を上げているのがクリスからも見えた。
「ウィルは何でも出来るから凄いよねぇ……」
「そんな事も無いとは思うけどな……って、こら、メラン! 痛たッ!?」
しみじみと呟くクリスに返答する途中、黒猫に逃げられるウィルヘルムの悲鳴が響く。軽く噛まれたからか涙目な飼い主を放置して腕の中に飛び込んでくる黒猫を、仕方ないなぁと呆れつつも抱きとめた。喉元をなでてやればゴロゴロと嬉しげな音を鳴らすこのメランという猫は、飼い主であるウィルヘルムに対してはツンツンなくせをしてクリスにはやたらとデレデレなのである。
まぁ、その原因は半分ぐらい飼い主にあるのだが。ウィルヘルムはクールな見た目に反して猫大好きの猫狂い──というのは言いすぎな気もするが、他にいい表現もない──な男である。真実かどうかは不明だが、週に数回は猫カフェに通っているらしいというし、メランからすると「他所の猫にばっかりうつつを抜かして!」という気持ちになってもおかしくはない。それが飼い主に通じていないのが大問題なわけだが。
「時々思うけど……たまーにダメダメなんだよね、ウィルは」
「え? 俺が何だって?」
「何でもないー」
完璧過ぎるというのも、とっつきづらいというか、どう関われば良いのか困るものだろう。昔、もっと前、クリスがこの世界に来る前のウィルヘルムと出会ったばかりの頃、彼はもっと淡々としていて感情の発露が少ない人間だった。その頃を思えば、このぐらいのほうが愛嬌があって良いのかもしれない。
きっと、多分、『■■■■■■』もそう言う筈だ。
「……?」
クリスは首を傾げた。
『■■■■■■』って何だったろうか。
それは多分、とても、大切なものだった筈だ。
身近で、大好きで、失ってはいけないものだった筈だ。
──…でも、思い出せない。
「めにゃ!」
「わっ!?」
思考の深みに沈み込みそうだったのを引き戻すメランの声。目を瞬けば、クリスを心配げに覗き込む黒猫の顔があった。頬をペロペロと舐めてくる黒猫が安心できるように、微笑んで見せる。
「大丈夫だよ、メラン」
「……めにゃーん」
「大丈夫だってば」
不安げなその声を聞きながら、背を撫でつつクリスは静かに囁いた。
まるで、自分に言い聞かせるかのように。