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雪ふりて 人もかよはぬ道なれや
あとはかもなく 思ひ消ゆらむ
──その少女は結局のところ、運が悪いのだと言えた。
今朝も寝坊をし、朝ご飯を食べ損ねた。
学校には課題をもって行き忘れ、先生の機嫌が偶然悪かったので、沢山叱られた。
体育の時間ではマラソンの途中で足を挫き、購買のパンは売り切れ、帰りには側溝の石蓋が掛けているところでまた足首を捻った。
そして気付いてみれば、今度はハザマなどという奇妙な場所にいる。
何か月か前にニュースにもなっていた、あの悪戯。
あれの続きが、これらしい。侵略。
侵略?
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……。」
訳が分からない。アンジニティとかいうひとたたちの、勝手な都合じゃないか。
だいたい、なぜ自分たちが立ち退かなければならないのか。この街に住みたいなら、単に移住してくれば良かったのではないのか。
「はぁっ、はぁっ──!」
走る。逃げる。走る。
先生はアンジニティだった。知り合いを見つけて駆け寄ったら、大きなナイフを向けられて。
ずきん、と痛む。二の腕の切り傷、流れ出す赤。
流れ出す、涙。
「もう……やだよぉ……っ!!」
心がぐちゃぐちゃだ。何もかも壊れてしまった。どうして私が、こんな目に?
どこだ、どこだ、と声がする。奥歯が割れてしまいそうなほど、ぐっと噛み締めた。
「そなた、此方へ。」
ふと、声を掛けられる。地面から10㎝ほど飛び上がりそうになった。
見れば、白と薄青の和服? のようなものを着た、背の高い男の人。
「……え?」
「追われているのでしょう。そこは見つかる。此方へ。」
格好良かった。こんな時に何を考えているのかと、すぐ後に自分が恥ずかしくなるけれど。
その服は教科書で見たことがあった。確か……そう、狩衣。
不思議な恰好だけど、清潔な感じだった。私はその男の人に随い、路地裏に隠れた。
「信じてくれて、ありがとう。術で隠します、静かに。」
そういわれ、ぴたりと額に指をあてられる。ひやりと冷たい。
ぞわ、と体温が1度下がったような感覚。振り払うこともできなかった。
「息を潜めましょう。」
男の人は静かな声で、私にそう言う。声を出すのももう怖くて、ただただ頷いた。
1分、2分。どれだけ経ったのだろう。
私を探す足音が、声が遠のくのを待つ。男の人は私を、自分の身体の影に隠してくれた。
「──遠のきましたか。もうよい。命を拾いましたね。」
「あの……ありがとう、ございます。」
男の人は微笑む。優しそうな雰囲気。
「困ったときは、お互い様ですよ。さあ、一旦この場を離れましょう。」
そう言って手を引く男の人に、私はもう、何を疑うこともなく従った。
「あの、お名前……。」
「ん、ああ。“やすな”とお呼びください。あなたは?」
名を告げると、男の人は“佳い名ですね”と微笑む。
「やすなさん、これ、何が起きてるんですか? 何かご存じなんですか?」
「いえ、ただアンジニティというもの達の侵略を受けている、ということしか。
何も分からぬまま、戦わされている。私もそなたと一緒ですよ。」
しばらく歩くと、私が住んでいる区の集会所にたどり着いた。
「ここに、イバラシティの皆さんが多く集まっています。遠目に見かけただけですが、間違いありません。此処で匿ってもらいなさい。」
家が近所であることを伝えると、ではご知り合いも多くいらっしゃることでしょう、と男は微笑んだ。
「あの、やすなさんは?」
「アンジニティの者らが近づかぬよう、先に辺りを見回ってきます。
大丈夫、すぐに戻ってきますよ。」
そう言って、狩衣の男は止める間もなく去ってしまった。
一人取り残された私は、少し迷った後で集会所の扉へと近付く。
──あの人がいなかったら、今頃どうなっていただろう。
こんなことになってしまったけれど、少女にもようやっと幸運が降ってきた。
死ぬか生きるか、だなんて。まるで教科書に書いてある戦争の頃のような状況になってしまったけれど。
あの人が、やすなさんが居れば大丈夫。信用できるし、頼りになる。
意味の分からない状況に、それでも光を見出して。少女は引き戸を開ける。お腹が減ったな、食べ物を分けてもらえないかな。
そんなことを、考えながら。
ぱかんっ!
と、不思議な衝撃音がして。
天地がひっくり返った。
「やれ!」
と声がする。シャベルか何かで殴られ、ひっくり返った私。
それを目掛けて、いろいろなものが降り下ろされた。
「え……?」
痛い。痛みは遅れてやってくる。
シャベル、木製バット、バール、鉄パイプ。
どこでも構わないと殴りつけられる。殴打音、殴打音、殴打音。
「やだ、やだよお! いたいいたい! やめて!!」
「うるせえ! あの子の皮を被ったアンジニティが……!!」
怒鳴りつけられる。痛い。殴打音が止まらない。
「わたし……あんじ、いっ……にてぃじゃ、ないよ!」
「バカみたいな嘘つきやがって。陣営の一覧は公開されてんだからよ、それ見りゃ一発に決まってんだろうが。お前の名前はきっちりアンジニティ側だよ!」
スマホを投げつけられる。
ひび割れた画面には、自分の名前と。
“荊”の文字。
少女はその日、とかく運が悪かった。
「……。」
痛い。血が流れる。骨が折れる音がする。
寒い。冷たい。怒号が怖くて、もう聞きたくない。
直後に耳を殴られて、すべての音が吹き飛んだ。ああ、よかった。
もういやだ。私はイバラシティの住民だ。
なのにみんなは、私がアンジニティだという。これはきっと何かの間違いだ。
つぶれた喉で、涙を流して呼びかける。
やすなさん、と。
痛い。
痛い。
痛い。
痛い。
……あ。
命のこわれる音がした。
嗚。
憎い。
「倒した……。」
「おい、早く裏に埋めてやれ。この子の親がまだ上で隠れてる。絶対に見せるなよ。」
「──おやおや。これはまた」
入ってきた男に、集会所の面々は僅か安心した表情になった。
「保名さん! あんたの言ったとおりだった。疑ってすまない。」
「──さんのお子さんに化けたアンジニティが、此処を襲いに来るって。でも、倒した。俺達でもアンジニティに対抗できる!」
「……ふふ、そうですか。」
保名はせせら笑う。
「異能は、使わなかったので?」
「必死だった。そこまで頭が回らなかったよ。」
「そうですかそうですか。ところで──」
保名は倒れ伏した少女の傍らに座り込み、その額に手を当てた。
唇を曲げると、それを殺めたもの達を見る。その裡で塩梅よく醸成され続ける怨みを、呪詛を透かし見る。
ああ、素晴らしい。これはきっと、佳いあやかしになる。
葛乃葉は歓んでくれるだろうか。今から楽しみであった。
「次は……──さん家のお子さんの皮を被ったアンジニティが、此方に近づいているようですよ……?」
▽▲
「……。」
連れ合いに、どうしたんだい? と声を掛けられて。
葛子は、刹那感じた怖気を振り払う。
「いや、気のせいであった。すまぬ。」
早く行きますよー、と声がする。桃色の髪が元気に揺れていた。
葛子は微笑み、「今行くぞ、うさもり殿、えみり殿!」と手を振った。