
「──得体の知れないあやかし?」
復唱して訊き返す、稲穂の女。
無言で頷く黒髪の童女。その主張を補うように、背後に控えた大蛇が言葉を発する。
「イバラシティの者もアンジニティの者も見境なしに、弱いものから順に襲われ喰われているようだ。 旧きもののにおいはするが、我らにも一切心当たりが無い。
厭な気配だ。葛の君の判断を仰ぐと、さとりが申しておる。」
「葛子さま。あさなたちは、葛子さまの命に随います。」
縁あるモノたち。“街”では家族も同然の、あやかしたち。
「そなたらは、それでよいのか? そちらの陣営での立場は悪くならんか?」
「ふん。もとより群れだって行動するような輩の集まりではない。
秩序などというものがあるなら、初めからアンジニティなんぞには堕とされん。誰がどう勝手に動こうが、頓着はすまい。
そも我らはだな、葛の君よ。そなたが現世(そちら)に残ったからこそ、安心してこの大平の世からの三行半を甘んじて受けたのだ。ならば我らあやかし、そなたの手足となって動くのが道理であろうが。」
心配げな葛子の言葉をにべもなく一蹴し、そんなことより、とおろちは続ける。
「先も言ったが、件のあやかしからは厭なにおいがする。あれらの痕跡を辿れば、いつかはそなたの宿敵に行き着くやもしれんぞ。」
同胞の言葉。アンジニティでありながら葛子にしたがおうとする彼らの意思は、堅いものである。
「……みんな、同じ思いです。葛子さま。 あさなたちはあやかし。他者の決めた彼我の区切りに付き合うつもりも、イバラシティを欲するつもりもありません。」
幼い姿の、真っ直ぐなまなざし。
葛子は迷わず、頷いた。迷えるはずもない。
「分かった。そなたらの助け、遠慮無く借りるぞ。」
それは、滅ぶものたちからの餞別でもあるのだから。
▲▼
チナミ区、J-16番地。
首を回せば湖がすぐ近くに見え、軽く寄せる波の音がする。
水は濁った鈍色で、湖岸の砂利には暗緑色のヘドロがこびりついている。普段のチナミ湖からは想像もできない景色。
湖の向こうには梅楽園が見える。明かりは点いており、荒廃し薄暗いハザマの中で奇妙なほどに華やかであった。
それはまるで、宵闇に倦み疲れたものを引き寄せる、誘蛾灯のように。
「よかったのか、あの者らに事のあらましを伝えずして。」
おろちの言葉に、葛子は頷く。
「タマーニ殿に、うさもり殿たちのことかえ? それならば、うむ。
なにも知らぬ彼女らを、この怨嗟と呪いの只中へと引き込むことはできぬ。」
葛子とおろち、それにあさなは、湖畔に敷設された道路を歩いていた。
アスファルトは長い間整備されていないかのようにひび割れ、至る所から雑草が暗緑色の葉を伸ばしている。
あやかし達が感じたにおいのうち、最も近場であったのが此処、チナミ湖であった。
葛子の返答に、おろちは鼻を鳴らした。
「それはそなたのやり方ではなかろう。ヒトを繋ぎ、ヒトと繋がり、頼り頼られ生きるのがそなたであるぞ。仔を想うばかりに、庇護の仕方を間違えるのは──」
「葛子さま、おろちさま。あそこ……!」
発されたあさなの声に、二人は言葉を止める。
湖の一角に渡された、小さな木造の橋。その中央に、人影があったのだ。
「臭うな。どうやらたどり着いたようだぞ。」
「うっ……。」
あさなが鼻を押さえ、眉をしかめる。強烈な死臭と怨嗟のにおい。
橋の上の影が、その口を三日月の形に曲げて嗤った。
「──あは、あは、あは。」
腕を上げ、指をさす。葛子に向けられたそれとの間に、あさなが立ち塞がる。
「たすけて、きつねのかみ。」
か細い女の声とともに、ごぼり、と水の詰まるような音が鳴った。ぺたりと頬に張り付いた黒髪。ぐっしょりと濡れそぼった衣服から、ぽたぽたと落ちる水のしずく。
おろちが鎌首をもたげ、「同情を引ける相手と思っているのか?」と唸る。
「たすけて、たすけ──」
ごぼり、ごぼ、ごぼ。ばしゃばしゃと水音。
女は水を吐く。薄緑色の水がさばさばと橋の傾斜を流れ落ち、欄干から湖に注ぐ。
「何を、助けてほしいのじゃ?」
葛子が静かに問うた。
「たすけ、たすけて、たす、たすけ」
嗤う女は水を吐く。その体内に収まるはずの無い量の水を、ざばざばと。
「おろち殿、どう見る?」
「んん……魂を縛られているな。湖の底に沈められでもしたか。」
「楽にしてやれるじゃろうか。」
「湖に沈んでいる身体を、引き上げてあげるのはどうでしょう……?」
「何処に沈んで居るかも分からん。現実的ではないな。多少強引でも、この場で祓ってやる方がよかろう。」
葛子は頷く。 あさなに視線を向けた。
「あさな、それでよいか?」
「はい。このような仕打ちは……。眠らせてあげましょう。」
「決まりだな。あの様子では、何の仕業でそうなったのか語ることも叶うまい。」
手早く済ませるぞ、と、おろちは橋の中腹まで歩みを進める。葛子とあさなもあとに続いた。
「わしではただ圧し潰してしまうのみじゃ。すまんがおろち殿、任せるぞ。」
「ああ。……ん?」
ふと、おろちが動きを止めた。視線をチナミ湖の水面へと向ける。
女は口から、耳から、鼻から緑色の水を流し続ける。
流れた水は湖に注ぐ。
ごぼ、ごぼ、ごぼ、ごぼ。
「たすけて、くれるのね。」
「ーーーッ!?」
「下だッ!!」
巨大な白蛇の尾が葛子の胴を絡め取り、その巨体からは想像もできないような俊敏さで飛びすさる。 薄い紙を隔てた程度の刹那。
橋の下。水面が爆発したかと思えば、その中から現れた巨大な影が口を開け、葛子たちが居たあたりをまるごと口の中に収めた。そのまま口を閉じ、轟音と供に橋は爆砕される。
「んおっ!?」
「葛子さまっ! お怪我はありませんか!?」
水中からの不意打ちを回避したあさなが、葛子とおろちの元へ駆け寄る。
「うむ、おろち殿のおかげでな。」
ありがとうと声をかけられ、大蛇はシュルシュルと息を吐き出した。
「迂闊であった。葛の君よ、我が失態だ。」
「いや、かまわぬ。わしもあさなも気付かんかった。それよりも。」
「ああ……。」
再び水面を割り、身を躍らせる巨大な魚。鯉、のようであり、しかしその大きさはヒトですら丸呑みにせんばかり。身体のあちこちの肉が腐り落ち、骨や肝が覗いている。
「あは、あは。たすけてきつねのかみ、たす、たす、たすけてきつねのかみ。」
巨大な鯉のあやかし。その中から、絞り出すように声が聞こえてくる。橋の上で3人を迎えた女の声と、それは同じものだった。
「どうやら、あれが本体のようだな。」
「うむ。ふたりとも離れておれ。あとは、わしがなんとかしよう。」
葛子が進み出る。視線の先で三度、水が割れる。
爆音とともに跳ね上がり、乱杭歯の並んだ口を満月のごとく開けてこちらに落ちてくる大鯉のあやかし。
それを真っ直ぐに見つめ、葛子は微笑んだ。
「長いこと水の中で、さぞ苦しかったろう。いま助けるゆえな。」
自らの横に現れる、半透明の狐。葛子の顔を見上げて、首をかしげる。よいのかと問うように。
「……。」
僅かな間の後。
「ふふ、伽藍よ。後生じゃ、舌はまだ勘弁しておくれよ?」
かすかに苦笑して、とん、と地を蹴った。