白い鍵盤を押せば、心地のよい音が部屋に広がった。
おれはこの楽器が奏でる音が好きだ。
始めたのはここで暮らすようになってからだけれど、用事がある時以外は大体毎日触れている気がする。
あとはそう、先生に大事な"お客さん"が来ているとき。
決して話し声の聞こえない防音室で、その人が帰るまでおれはここに居ないといけない。
それがおれと先生が交わした、約束の1つ。
Ⅳ. 二人の失くし物
初めてこのピアノの存在を知ったのは、家に来て部屋の場所を教えてもらって数日後。他の部屋のものよりもちょっと重たそうな扉があったけれど、先生はその先を教えてくれなかったから、子供なりの興味本意である日勝手に扉を開けたのだ。
すればその先、向こうに待ち構えていたのは、大きくて立派なグランドピアノが一台。
十分な広さのある部屋の真ん中に佇む姿はある種美しさもあって、おれはその瞬間確かにこの楽器に見惚れていた。
勝手に部屋に入っていることはすぐにバレてしまったので怒られるかと思ったけれど、先生は眉を落として笑うだけだった。そうして叱ることもなく、優しく頭を撫でてくれたことを覚えている。
『弾きたい?』
たった一言尋ねられて、迷わず頷いてしまったことも、また。
その日を機に先生は、暇があれば楽譜の読み方や弾き方をおれに教えてくれている。先生はおれにとって料理の先生でもあるけれど、ピアノの先生でもあるのだ。
けれど一つだけ、不思議なことがある。
共に暮らし始めて5年間、先生が鍵盤に触れているところをおれは一度も見たことがない。
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「……変だよな」 |
この家にあるということは、ピアノの持ち主が先生であることは間違いないだろう。なのに先生は絶対にピアノを弾きたがらない。
否。
『──ねえ、どうして先生はピアノ、ひかないんですか?』
『んー? 気になっちゃう? そうだなぁ……命、私はね?』
弾かない、のではなくて。
弾けない、のだとそう言う。
繰り返すが変な話だ。おれに色んなことを教えてくれていて、そんなわけはないだろうに。
でも、少しぐらいは予測がついている。なぜ彼がそう言ったのか。
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「 」 |
おれがピアノを弾くとき、決まって一人足を運ぶ観客がいた。
今日もまた、彼女はそこで笑っている。
慈しむように、ピアノを弾くおれを、音色を響かせるピアノを見ている。
或いはおれが席を離れたとき、彼女が一人でそこに座っていることがあるのも知っている。
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「…………」 |
鍵盤から指先を離して、彼女を見上げた。
全部予測で推測にしか過ぎない。でもきっとこのピアノは、先生と彼女を繋げる何かだ。
だからこそ先生は弾けない。だって彼は恐らく、ずっと。
そう考えるとつい溜め息が零れて、視線も落ちてしまう。先生のそういう一面を見る度に、どうしたって感じていたこと。引け目、とでも呼ぶのだろうか。
絶対に先生に声の届かない場所で、今日ばかりは言葉が漏れてしまった。
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「……おれって、薄情なんですかね」 |
5年前、突然いなくなってしまったおれの家族。
母と父の間には、子供が産まれにくかった。
そんな中漸く産まれたおれのことを、二人はそりゃもう随分と可愛がってくれていたと思う。
寝るときはいつも川の字だった。おやすみ前の挨拶は決まって同じだった。
『愛してるよ、命。
かわいくて大切な、私たちの宝物』
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「二人が傍に居ないこと、寂しいなって思います。悲しいなって。 ……でも、だからっておれ、そこまでなんです」 |
眠れなくて、自分を大切にできなくて、きっと大好きなんだろうピアノにも触れない先生。
彼はきっと、死者に囚われている。おれを見下ろして頬笑む彼女に囚われている。
大切だったからだ。彼にとっても彼女にとっても、お互いが大切だから。失くしたことが受け入れられなくて、その穴がずっと埋まらない。
おれも確かに大切なものを失くしたはずなのに、けれど先生と違って、二人の思い出に触れることは怖くない。
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「だって、……二人が居なくなっても、与えてくれた愛情が嘘になるわけじゃない。 きっと二人は今もおれの幸せを望んでいてくれている。 居なくなってもおれを、ずっと、……愛してくれているんだろうなって」 |
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「……だから、それさえあれば、おれはこわいものなんてないんです。 今日も明日も明後日も、前を向いて頑張ろうって思うんです。 ああいや、人と喋るのとか学校とかは苦手で、情けない感じですけど……」 |
それとこれとはまた別問題というか。対人関係が苦手なのはまた別種のトラウマだとか元々の気質もあるだろうし、そもそも人には得意不得意があるし。なんて言い訳はしてしまう。いやいつか克服したいとはちゃんと思っているけれども。
なんだかなあと思ってまた息を吐きながらも改めて彼女を見上げれば、思いもよらぬ光景が飛び込んできたものだから目を瞠った。
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「……え?」 |
ぽたりと頬を伝う滴は、流れ落ちて、それでも床を濡らすことはなかったけれど。
でも、紛れもなく、泣いていた。
いつも笑っていた彼女が、泣いていた。
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「ッ、す、すみません! 嫌なこと言いました? ごめんなさい……!」 |
彼女と共に過ごすようになっても5年は経つのだが、これまでの間に泣いている姿は一度も見たことがない。やってしまった、泣かせてしまった。この状況、喋っていたのは自分だけ、と考えると紛れもなく悪いのはおれだ。
慰めるにもどうすればいいのかわからなくて、とりあえずおれは慌てて立ち上がって、本当にとりあえず、失礼かもしれないけれど彼女の頭を撫でた。かける言葉がわからない今、おれにできるのは泣かないでと、涙が止まるようにと触れることしか。
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「ああクソ……おれにあなたの言葉がちゃんと分かればな……」 |
どうしようもないことを言ってもどうしようもないのだけど、ただただ涙を溢す彼女を見ているとそう思わずにはいられなかった。どうしてなのか分かれば、もう少しマシな言動が出来そうなのに。
なんにもわからない自分が、酷く情けない。
結局その後おれは何度か彼女に謝ったけれど、涙の理由はやっぱり分からず仕舞いで。
先生がおれを呼びに来たことで二人の時間は終わりを告げて、申し訳なさだけがずっと胸の中に渦巻いていたのだった。