
[Side:B]
郷里・R・之定は教師である。
凡庸な男であり、それなりに充実してそれなりに困難な人生を歩んできた。
平凡な人生だと自分でも思う。起伏に富んだものとはとても言えない。
ただ、自分でもそう願っていたふしはあった。そのようにあれと努力していたふしがあった。
例えば最愛の祖父が亡くなったとき。船乗りだった祖父の亡骸は、彼が話して聞かせてくれた船の話のその姿よりよっぽど小さく見えた。
寂しかったが涙は出なかった。
例えば最愛の恋人が目覚めなくなったとき。毎日のように笑顔で傍に居てくれた彼女は、もう何も言わず表情も変わらず人形のように冷たく横になっている。
悲しかったが涙は出なかった。
それは多くを望まない分、多くを捨てる行為だ。
努力を人並み以上にしない分、人並み以上の幸福を得ない行為だ。
だが郷里はそれを選んだ。
自分の身の丈に合った人生を生きる為、それを選択した。
郷里・R・之定は教師である。
一般的な教師としては合格点。よい教師としては及第点。それくらいの人間だ。
良くも悪くも平凡であり、恩師として慕う子供も居れば、まったく記憶に残らないものもいるだろう。
日々の業務を適度にこなし、子供たちの変化を見守り、卒業していく大勢を見送った。
沢山の顔を覚えているが、彼らの心の深いところまでは知りえない。
そういう教師だ。
郷里・R・之定は教師である。
平凡な、凡庸な、平均的な教師である。
何かの為に必死になることはけしてない。
なかった。
ここは“ハザマ”と呼ばれる異世界。非日常である。
男にとってそれは一大事であり、人生の危機であった。ここまで作り上げた人生の危機であった。
彼は取り乱した。ここは自分の“日常”を穢すものであり、あってはならない事態であり、避けては通れない非日常である。
それをどうにか理解したとき、時計の針が一つ、冷酷に時を進めた。
――子供たちはどうしている?
男の心に生まれたのは背筋の冷たくなる疑問だった。
――怖いものが苦手な子供がいる。
――戦うのに向いてない異能の子供がいる。
――パニックになってけがをする子供がいる。
――人を傷つけるのが嫌な優しい子供がいる。
彼らは今どうしている?
男の胸を、どうしようもない恐ろしさが襲った。
胸のあたりをぎゅうと掴み、心臓の痛みに耐えるようにして顔をゆがめた。
彼の胸に去来したのは、今まで感じたことのない、途方もなく大きな情動の揺れだった。
『日常が失われる』
その象徴が子供たちの存在にすべて詰め込まれていた。
何とかしないといけない、と彼は思った。
郷里・R・之定は教師である。
平凡で、凡庸で、つまらなく、取るに足らない一人の教師である。
ただ、その日常を壊されることだけは、何よりも嫌悪するのだ。