悲鳴にどよめき、響くサイレンの音、打ち付けられた体が痛くて、頬に触れるのは鉄臭くて生暖かい、
「──命、私の傍から決して離れないでね?」
「分かってますよ、……こんなところで迷子なんて、絶対嫌です」
目の前の荒れ果てた風景は、いやに昔の記憶を刺激して、気持ちが悪い。
Ⅱ.午後の微睡み
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「────」 |
玄関の扉を開けばまず目の前に飛び込んできたのは人差し指を立てて口に当てている彼女の姿だった。
少し驚いてはしまうけれど、たまにあることなので大きな声は出さずに静かに扉を閉める。
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「……ただいま」 |
声量は抑えていつもの挨拶を口にすれば、彼女は満足そうに頷いた。
それから靴を脱いで廊下を歩くときも物音はあまり立てないように気を付けて、リビングへと続く扉もまた静かに開けば。
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(──ああ、やっぱりか) |
見えたのはソファに横たわっているこの家の主の姿。毛布やブランケットをかけることもなくすやすやと寝息を立てては穏やかに眠っている。
先ほど自分を出迎えてくれた彼女はするりと横を抜けてゆっくりとソファに近づいては、しゃがみこんでその寝顔に微笑んでいた。
おんなじようにおれも歩み寄って、背凭れの側から寝顔を見下ろした。胸に沸いたのはよく寝ているな、という見たままの感想である。
安堵していることも、また事実なのだが。
──先生に病名をつけるなら色々と挙げられそうだが、まあまず不眠症であることには間違いなかった。
寝付きが悪い、眠りも浅い、かといって日中は睡眠不足であることを尾首にも出しやしない、ので質が悪い。
無理をしていても知る術がないので、たまに電源が切れたようにこうやって寝ているのだ。それもたまに。
リビングのテーブルの上にはオルゴールが一つ置いている。
何週間か前に、雑貨屋で買ってきたと機嫌良く報告されて、言われるがままに共に作ったもの。
余程気に入っているのか一人でも鳴らしていたらしい、それがよい子守唄になったようだ。
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「…………」 |
これでも、おれが来てからマシになったのだと本人は話していた。
三十にもなるくせに一人が嫌いな男は、寝るときも一人だとうまく眠れない。もう自分も高校生なのだし抱き枕にされる日々は少し恥ずかしさがあるというものだが、ちょっとの我慢で先生の健康が少しでも保たれるなら、と思ってしまうのは甘やかしてしまっているのだろうか。
なんというか、一回りも違うくせに、どっちが子供なのかたまに分からない。
ぼんやりと寝顔をそのまま見下ろしていたら、白くて細い指先が色の薄い髪を撫でていた。
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「 」 |
何か、言っているのだと思う。というよりは口の動き的に、歌っている。
それでも彼女の声はおれには聞こえない。おれ自身の問題、というよりは、彼女自身の問題なのだろう。
見えるだけでなくて他のよくわからないものたちの声や音を拾うことは一応できるのだ。というか、否応なしに耳につくのが日常だ。
だから口を開いていても音が聞こえないのは、彼女に声が無いからだろう。生前からそうだったのか、死んでからなのかはわからないけれど。
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(……愛されてるなあ) |
傍から見てもわかるぐらい、彼女は先生のことをすごく気にかけていた。
それがおれだけに見えていて、本人には何も分からない、というのは少し胸が締め付けられるような心地がしてしまう。
だってこうやって彼女が届けたい歌も、先生には何も聞こえないのだ。撫でているというのだって、おれにしか分からない。
おれの視界にはどちらも間違いなく在るというのに、二人の間にはどうしたって埋まらない境界があるのだ。
こういう気持ちをもどかしいと表現すれば適切だろうか。何かしてあげたいような気もして、けれどできることなんて大して何もない。
今できることだって、物音を立てず覚醒させず、幸せそうな彼女の一時を守るぐらいだろうか。
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(あんまり心配かけるなよ、だめなひと) |
あとはプラスアルファ。溜息を吐いて、こっそり心の中で悪態を吐く。
晩御飯の準備があるので彼女には申し訳ないが三十分も経てば作り始めよう、そんなことを考えながら。