
ひとひとりがやっと通れる小道を崖下へと下る。ところどころ崩れないよう補強されているものの、道と言うには些か頼りない。
この道は人を拒むと同時に、この先に価値を感じる者を迎え入れてくれる。
「よっ」
通い慣れた径路の終端、最後の一メートルほどを飛び降りて、しなやかに着地。勢いを残したまま一歩踏み出すと、藪を抜けて視界が開ける。マシカの海だ。
時は十二月二十日、早朝。刺さるような寒さの中、潮風がそれをさらに鋭くしている。
……冬にここに来る物好きはそうそういねぇか。ドリームビーチの方ならまだしも。
砂を踏みしめ、波打ち際へ。
水はどこまでも澄んで、多様な生物層を覗かせている。灰と茶と緑と。青は複雑な地形を満たし色と色とを滑らかに繋げて濃淡を形作り、それは水平線の彼方まで広がりこの星を覆って空を映す。水は大気と触れてうねりを生んで、朝日を受けて白く波頭を跳ねさせる。
繰り返す波のざわめきに誘われて。水面を透かして繋ぎ目なく続く砂浜に、踏み込みたい衝動に駆られ危うく立ち止まる。
そこまでは行けないな。行きたくても。何の準備もなしに冬の海に入っては、人は凍えてしまうから。
それでも。触れるだけなら。
ここにいるものと、ここにいることを、確かめるように。
少しかがみ込んで、手を伸ばす。
波が指先を洗ってゆく。
濡れた砂は硬く、けれども吸い付くように柔らかく。
冷たく、深く。
満たされてゆくのがわかる。
この世界が、俺を少しだけ強くする。
♦︎
♦︎
「……寝て、た?」
どうやら、寝ていたらしい。随分と久しぶりに起きたような気もする。いや、俺は確かマシカの海にいて。は? 海?
「は?」
意味がわからねぇ。いや待て。気がつけば結構騒がしい。人がいるのか。人がいるんじゃ、こんなところでのたのたしてるのもアレだな、とりあえず状況確認、あとはそれから考える。よし。
はい、ますます意味がわからねぇ。
時々明らかに人じゃねぇ奴いるし。空は赤いし。なんなんアレ。あー、ひとまず危険はすぐには無さそうだが。
とりあえずアレだ。
出口とかねぇのかな?
適当に見回ってみる。
「ん?」
何か引っ掛けたらしい。振り返って違和感。まさかと手でツノに触れてみる。俺こんなにツノ伸ばしてたっけ?いやここまで伸ばしたこともねーよ。っていうか
「あれ?」
見覚えのない袖口。
着てる服違くね?
全身をくまなく確認する。
ああ……
思い出した。
たしかに寝てた。
俺はアンジニティでしばらく寝ていた男。
名前はイツだ。
♦︎
正直、まだ掴み切れないでいる。
過去とイバラシティの俺と…… 混乱しているのか。いや、違う。あまりにもイバラシティでの時間が鮮烈すぎて、遠い記憶が霞んでいるだけだ。
思い出せ。アンジニティで最後に俺は、静かに寝ていた。……はずだ。
見慣れない風景、道行く人々。しらねぇ種族の奴もいる。何と無しに周囲へと好奇心が駆られる。イバラシティでの俺に引き摺られているのか。いや、これも違う。あれは俺だ。紛れもなく。今、この俺も。
気づけば、全てが刺激的に思えてきた。久しぶりの感覚。一枚一枚、殻を剥がすように、こんどこそ長い眠りから目が覚める気がした。
♦︎
落ち着いた。
オーケー、オールグリーンってやつよ。
気分は悪くはない。
これから行動するのに気持ちが省エネモードってのもヤバそうだからな。
どうしたものか。
情報が少なすぎる。ワールドスワップ? なんつーか、こんな大掛かりなことをやるには雑すぎる。説明も途中で切り上げやがったし。これじゃまるでアレだアレ。イバラシティのネットでよく読んだ小説の、あー…… 巻き込まれ召喚。
ここに止まっててもマシな情報が得られる気がしねぇ。
ちっと、先の様子を覗いてきますかね。
危険はあるだろうが、ん…… まぁ、暫く死にはしねーだろ。
どこかアンジニティを思い起こさせる景色が続く。
ハザマか。
作られた世界なのか、それともどこかへ接続しているのか。それに、この身は実在するものなのか。
今はまるでわからないが…… ただ、こう考えている俺は存在している、そう作られていなければだが。まぁ、この手のことは考えてもキリがねぇ。
イバラシティの俺も同じだ。例え幻であったとしても、その経験が生きた軌跡が俺に還元される限り、俺と切り離す事はできない。
ふと、マシカの海が恋しくなる。
“数時間前までいた” はずの海が遠く儚いものに思えて、記憶を鮮明にしようと意識する。
鮮やかな物語も身を震わせるスリルも無いが。生きること、感じることをずっと意味あるものにしてくれるものを。あの平穏は俺に思い出させてくれる。
思い出させて?
いや、別に…… 忘れてはいない。
俺はアンジニティで全てを捨てたわけじゃねぇ。
これでも、俺は意地汚く生きることを選んできた。死ぬだけなら容易かったあの土地で。あの世界に何も無いとは思いたくなかったから。そう思っちまったら、音をたてて崩れるものがあると知っていたから。
ただ、少し疲れてしまっただけで。
侵略、か。
侵略が失敗しても成功してもどうなるかなんて、わかるはずもない。今は。
喜んでる奴も結構いるんだろう。アンジニティでずっと生きて死にたい奴なんてそうそういねぇだろうし。まぁ、そういう奴はまだ生きる気があるだけアレか……
どうなんだ? ずっとあの世界にいて心を鈍らせて、そうして色々忘れちまったら、僅かに残った生きるための最後のよるべでさえ自ら掻き消してしまう。生きてんだか死んでんだかわかんねーような奴いただろ。いやあれはあれで、本人は満たされてるのかもしれないから、俺がどうこう言えた事じゃねぇが。
でもまぁ、そんな俺らにさ、今更瑞々しい飢えと渇きを思い出させて何をさせたいんだ?
何ってまぁ、侵略?なんだろうが。
クソッ。
めんどくせー。