
こんなことになるなんて思っていなかったのだ。
書き出しだ。状況を整理しよう。私の名前は茅芽笹子、それは間違いない。
間違いないはずなのだ。それが、こんなことになろうとは。
何故?私は油断したのか?……そうかもしれない。
いつもの様に軽い出張。更迭といっても、その日常の延長が少し長いだけ程度の気持ちでいたのかもしれない。
それが、よもや、こんな、自己さえも疑うような事が起こるなどと思いもよらなかった。
この数日間の記憶が自身の脳裏を流れて通っていく。
間違いなく私の記憶であり、しかし私ではない誰かの記憶だ。
自身に起きた事に違いないのに、知らない誰かのアルバムをただ漫然と見ているような感覚。
……正直気持ちの良いものではない。
確かに数日、私は私としてあの街で過ごしていた。
偽りの記憶と辻褄合わせの立場を得て、あの街で私は私より私として生きていたかもしれない。
助手となった男と過ごし、穏やかに流れていく日々が楽しかったという記憶がある。
確かにその情動を記憶として覚えている。しかしそれが今ここにいる自身の認識と合致しない不快感。
頭が痛い。思考と情動の乖離が、ある種の不快な酔いを自身にもたらしているのがわかる。
そして予感がする。このままでは、取り返しのつかない事になる。間違いなく。そう私が警鐘を鳴らしている。
どうすれば良い。私は、私でない茅芽笹子をどうすれば止められる。
ーーーーーーーーーー
状況を整理する。
流れ込んできた私の記憶、この数日あの街で過ごした私の動きをもう一度振り返るべきだ。
あの街でまず私が取り掛かったこと。
研究所の立ち上げと運営、その行為自体は間違えていない。
更迭の内容も、新規の支所の立ち上げと運営という内容で指令が与えられていた。
従って、その行為自体に矛盾は生じていない。
問題はあの助手だ。
あの街の私が、何故あの男をあの様な扱いをしているのか、理解ができない。
そもそもとして、あの男は現状で全く得体が知れないのだ。
この街、この地に来る前にあの男と会話する機会が与えられた時、
あの男はこの私でも、あの街の私でもない、また別な世界の私の助手であったと名乗った。
それ自体は起こり得ることかも知れない。
こうして茅芽笹子が私で無くなってしまう世界があるのなら、私がいる別の世界が存在する可能性は……。
いや、よそう。現状でその可能性を思索してもプラスに傾くとは考えにくい。
思考のリソースは有限だ。今考えるべきはその事象についてではない。ここはそれが『有る』という仮定で一度収める。
……あの男は私の助手であると名乗った。だが、あの男の言うことを鵜呑みに信じることはとてもできない。
何故か。少なくとも現状であの男は、組織を更迭された私に付けられた、言わば首輪の鈴である可能性の方が断然高い。
経歴の全てを偽り、私を監視する役目の可能性、警戒して然るべき相手だ。
しかし、あの街の私はその警戒が損なわれている。
何故かはこの際置いておく。だが、この点があの街の私とこの私との間に乖離を生んでいる。
一先ず考えられる仮説は二つ、街の影響か、あの男のなんらかの策か。
何にしても情報が足りない。あの男に関する情報が、現時点でまるで足りていないのだ。
仮定でしか成り立たない、朧な想定しか組み立てられない。
しかし、ふっと嫌な仮定が脳裏をよぎる。
もしこの状況が意図的に引き起こされているものだとしたら?
つまり、あの男の情報について隠す必要があるのだとしたら?
『そうだ』とすると納得できる事柄が少なからずある。
出発の前に私に渡ってきた書類、『そうならば』私に情報も渡さないために、あの様な内容だったのだ。
『普通免許三十段』あの男の資格一つ取ってもまともに情報を得られていない。
あの街の私は上手く丸め込まれ、情報を得るどころか渡してしまっている。
だが、もし、本当に仮にだが、『この記憶の改竄が、私だけにしか起きていない事』で、あの男は元いた世界の記憶を保持しているとしたら。
その上で、あの男の、一連の行動の目的が、『茅芽笹子を打算的に出し抜こう』と考えた上での行動だとしたら。
背中に嫌な汗が流れるのを感じる。記憶の混濁も相まって吐き気すら感じている。
……あの街にここの記憶は持ち越せない。しかし、それでもせめて、このハザマで、可能な限りあの男の情報を集めなくてはならない。
幸いなことに、このハザマという地ではあの男への直接的な連絡手段がある。
質問、いや、尋問か。正直、あまり得意じゃない。
ーーーーーーーーーー
状況を整理する。
イバラシティ、あの街についてだ。
あの街では強烈に認識を阻害する作用が働いている。
その働きは私にあの街での過去を与え、仮初の地位を与え、違和感を矮小化させている。
ハザマ。そう呼ばれていたここでだけ、私は本来の過去を取り戻せる。
問題は複雑だ。元の世界に帰還しようにも、ここハザマでは私たちがこの地に来るのに使用した『装置』が起動しない。
そして、あの街の私は『装置』のことなど忘れてしまっている。
……違う、そもそもそんなもの、あの私は知りもしない。
研究室の資料、奥に追いやった箱、あの中にこそ、この状況下で必要なものがある。
しかしあの時部屋の片付けをした状況下で、あの街の私は、それらの資料に何か嫌な予感を感じていた。
仮説が一つ立つ、私は、私があの街の人間でない事を知る事を避けているのではないか。
あの資料にはあの街では知り得ない事柄が記載されている。……尤も改竄が行われていなければ、の話になるが。
あの部屋の資料については確認と検証をしなくてはならない。
しかしどうやって。この記憶にある感情が、あの時私が抱いていた感情であるならば……。
……現状では情報が不足している。
あの街について、もっと知る必要があるのは間違いないだろう。
ーーーーーーーーーー
方針を検討する。
必要なものは情報。
得るための手段は尋問。
この時点で著しく気乗りがしないが今はそれどころでは無い。
薄い可能性だとは思うがあの男がこの一連の事象を掌で転がしている可能性すらあり得る。
そうだとして、私に出来るのか?それほどまでに大掛かりな事を画策する存在への尋問が。
否、出来なくてもやるしか無いのだ。私が私であるために、茅芽笹子を損なわないために。
必要なものは協力者。
得るための手段は説得。
これも気乗りしない、原因はわかりきっている。該当者があの男だからだ。
もちろん、情報共有の上であの男の疑惑が晴れてから、ということになる。
だがそれにしても……。
しかし、他に我々の事情を知る者も、我々の立場を知る者もいない。
本当にそうあるべきなのか。あの男の協力は必要なのか。見定めさせてもらおう。
必要なものは短期の目的。
確認だ。一先ず私は今、何もわかっていない。これは自覚するべきだ。
そしてそれを是正すべきだということも間違い無いだろう。
推論は建つ。
世界間の抗争に巻き込まれ、どちらの所属でもない私は侵略者側に割り振られ、違和感の無いよう記憶を植え込まれたのだろう。
しかし、これは、この地に来るまで事前には予想だにしていなかった事態である。
そしてこの際だから認めよう。平時、どれほど取り繕っていても私という人間は限りなく想定外に弱いのだ。
ここに書き出すことで改めて自覚をする。その上で、どこまで最善手を尽くせるのか。
利用できるものはなんでも利用する。例え今信用ができなくても。一先ずこの危機的状況において無害ならばそれでいい。
リスクとリターンの秤を揺らして、なるべく平衡を保つように。
可能ならばリスク側の皿が天高くに掲げられるように。
そして、そこに感情は介在すべきで無い。秤は機械的であるべきなのだ。
つまり、短期的に目指すべきはあの男と合流すること。
その上で、あの男を見定め見極めること。
ーーーーーーーーーー
日記の記載を終え、一息置いて通信の画面を開く。
リストの中にあの男の名を探す。この数日、その記憶の中で何度も目にした男の名を。
No.77『偽黒初』
……見つけた。
通話のコマンドを実行する直前に少しだけ躊躇う。
本当に一人で事態に当たらなくて良いのか。
大きな過ちの一歩を踏み出そうとしているのではないか。
その疑念はいまだに振り払えない。
一呼吸。大丈夫。私は、その疑念をこれから解消するのだ。それが良しにしろ、悪しにしろ。
そうして通信のコマンドを実行する。暫し接続音の後、回線が開かれた。