
これは日記、即ち記録だ。当然のことながら。
「……お互いにいろいろ言いたい事があるのはわかってる。でも、その前に確認が必要だという事は分かってもらえるわね」
呼び声。あるいは、証言を待つ判事のような。虚空から響くそれは、ミランダ警告かと錯覚するほどに、有無を言わさぬ強さを秘めたものだった。天を仰ぎ見る。作り物の空に浮かぶCross+Roseのログイン画面は、この世界全てを見通す、厳然たる支配者だった。
物事には順序がある。時間は正しく流れ、物事は必然的に一定の方向性を得る。春から夏、種から花、過去から未来へ。人は記憶を時間と紐付けて脳に仕舞いこむ。何事も順序が大事だ──かつてどこかの法事か何かでお坊さんにも言われたことがある。物事は順序どおり、天寿を全うするのも順序に沿うのが正しいのだと。無意識のうちに思い出されたのは、そんな他愛の無いことだった。
しかし。時間と記憶、そのどちらかが破綻していれば、どうか。
(いや、両方ぶっ壊れてるでしょ。どっちかとかじゃないでしょ。こんなのは)
昼下がりの睡魔にも似た混濁の中、ありもしない思い出が次々と脳に浮かんでくる。イバラシティ、第三湖東ビル、観葉植物、茅芽笹子、研究室。思い出すとも閃くとも違う。イバラシティにおける偽りの日々が脳に流れ込んできた際、初めに感じたのは””安堵””だった。続いて、””二重人格ってこんな感じなのかな””という、漠然とした理解。
物事には順序がある。宿った感情は、正しい順序のそれではなかった。驚愕でも、不安でも、困惑でもない。
奇妙。
人生初の現象に遭遇した人間が感じるであろう感情から遠いところに着地したのは、自分でも奇妙としか言いようがなかった。本物の記憶と遜色のない、あるいは現実を上回るほどの現実味と解像度で編み上げられた記憶が、いきなり十日分も湧き出てくることに耐えられたことをへの喜びだろうか。
自分の感情ですら、分からない。少なくとも今この瞬間は、自分が本当に地面に立っているかどうかすら危うかった。
(これが……アレか。あの、アレだ。聞いちゃいたけど、実際に起こってみないと全然分かんないな)
自分の記憶が自分のものではないとして、その自分の選んだ道と、自分の記憶が自分のものである自分が選ぶ道は、果たして同じ結果になるだろうか。それは誰にも分からない──分かったところで意味もない。人生は一度しかないし、自分は一人しか居ない。
それでも、今の自分と二重人格とで決定的に違うのは、精神は一つということだ。紛い物の記憶に基づいた行動とはいえ、主体があくまで自分自身であることは変わらない。これならば向こうで笹子さんを傷つけるような真似はしない。記憶は二つでも、本来の自分ではない人格に怯えずに済む。記憶改変の範囲が狭かったのは僥倖だった。
とはいえ、人格すら改変されてしまった人もいるだろう。それに比べれば、はるかにマシだ。
(幸運でしかない……まだ恵まれているわけだ、僕は。向こうじゃドライブも出来たしな)
とめどない思索を打ち切って、周囲を見回す。益体もないことをだらだらと考えてしまったが、無意味でもなかったらしい。入り混じった記憶を整理していくうちに、落ち着いて状況を確認する余裕が生まれていた。
そこは異世界だった。トンネルを抜けるまでもなく、荒涼たる風景がどこまでも寂しげに広がっている。目線を空へ向けると、謎の文字列が浮かんでいる。ハザマの介添え人の言葉の通りならば、あれらはVRチャットらしい。念じれば利用できるとか。眉唾と思っていたが、そうでもなさそうだ。
状況は決して悪くない。理由は三つ。
その一。介添え人の言葉が真実であると分かったこと。
その二。念のためたまたま偶然持ち合わせていたワイヤーもこちらに持ち込めたこと。
その三。介添え人の説明からして、恐らく笹子さんも近くに来ているだろうということ。
チャットとやらを用いれば、上司との連絡もつくはずだし、全くの丸腰というわけでもない。おまけに、親切なナビゲーターが嘘つき男ではないことも分かった。状況は決して悪くない。
ノイズと着信。ザザ、ザザと耳に刺さるような雑音の後、聞き覚えのある声が流れてくる。先に回線を繋いだのは上司の側だった。最善手を導く行動力は、記憶の中の茅芽笹子像と合致する。
「……お互いにいろいろ言いたい事があるのはわかってる。でも、その前に確認が必要だという事は分かってもらえるわね」
呼び声。あるいは、証言を待つ判事のような。虚空から響くそれは、ミランダ警告かと錯覚するほどに、有無を言わさぬ強さを秘めたものだった。空を仰ぎ見る。作り物の空に浮かぶCross+Roseのログイン画面は、この世界の厳然たる支配者だった。
通話が終わる。いくつかの言葉を交わし、いくらかの情報をやり取りした。
何をすべきか。優先順位を考える。ここはハザマ、元いた場所とも違う世界。優先されるのは合流だろう。状況が分からないまま、一人だけで過ごすというのはアドに対するリスクが大きすぎる(リスク鳴動してアド一匹。有名なアドバンテージことわざだ)。
いや、違う。ハザマで強化された異能が囁くヒント。合流は過程だ。踏み台であり、到達点ではない。その先にたどり着くことが求められる。直感は教えてくれなかった。その先とは?
歩みながら考える。必要なのは状況の把握でも合流でもない──信用だ。ハザマとイバラシティとで決定的に違うもの。それは記憶。思考が一巡して戻ってくる。自分がそうであったように、笹子さんも当然同じような、あるいはもっと過酷な目にあっている。通信から伝わってきた感情は、怒りや猜疑心ではない。思えば、あれは焦りだったのだろう。意思決定の根拠となる部分が変質させられ、架空の記憶に基づく物差しで動くよう、人格すら変えられた。空をなぞる指の動きは符牒だ。イバラシティの記憶を有しているという、彼女なりの主張。自分はともかく、ハザマの、あるいはあの世界の笹子さんは──
「ア゛ア゛ア゛ア゛ァァ・・・・・」
(やっぱり居るのか……居ないと思ってたら消えてくれるかなと思ってたけど駄目か。そりゃそうか)
最優先事項が入れ替わる。記憶の混濁による幻影だと言い聞かせ、視界に入れないようにしてきた化け物が、とうとう痺れを切らせたのか、喚きながら迫りつつあった。
物事には順序がある。ワイヤーを展開し、戦闘態勢を取りながら、考えていた。
状況を、目的を見誤ってはならない。合流を果たすべきだ。それは間違いなく正しい順序として予定の中に組み込まれている。その後で、直接会って話をしよう。信用されていない状況での情報交換など、何の価値があるだろうか?
正しい順序とは、何か。まず、信用。そのための合流、そのための戦闘、そのための──勝利だ。
最優先事項が入れ替わる。記憶の混濁による幻影だと言い聞かせ、視界に入れないようにしてきた化け物が、とうとう痺れを切らせたのか、喚きながら迫りつつあった。
物事には順序がある。ワイヤーを展開し、戦闘態勢を取りながら、考えていた。
状況を、目的を見誤ってはならない。合流を果たすべきだ。それは間違いなく正しい順序として予定の中に組み込まれている。その後で、直接会って話をしよう。信用されていない状況での情報交換など、何の価値があるだろうか?
正しい順序とは、何か。まず、信用。そのための合流、そのための戦闘、そのための──勝利だ。