十日夜レキを知っていますか?
ええ、ヒノデ区の金柑通りに、家族と離れて使用人達と住んでいる、あの少年です。
十日夜家と言うのは、遠く昔から異能を用いて巨万の富を為した、財閥の一族なのだそうです。
彼らが代々備える異能は、ある特定の媒体を無から産み出したエネルギーで操ると言うもの。
曰く、空気中の僅かな荷電粒子から雷をも作り上げ、無尽の動力に大地を癒やす豊作さえ呼んだのだと。
曰く、一滴の水を元に霧の大嵐を作り上げ、雲を呼び、日照りの地に救いの雨を注がせ続けたのだと。
彼の弟も、父も、そのような力の持ち主です。
けれど、彼だけが違いました。
十日夜レキが操れるのは、ただ蝶だけなのだと!
どれだけの落胆と失望があったことでしょう?
厄介払いするように、家族は彼を置いて遠くへ行きました。
父と母は、腫れ物を触るように彼を扱います。
弟は会いに行けども、彼を出来損ないと蔑みます。
使用人達からは、本当の子では無いのではないかという噂さえ立った始末。
でも、仕方ないですね。出来損ないの十日夜レキ。
本来あるべきようになれなかったのなら、それをこの世は罪と定義するのですから。
このまま不条理を受け止めて生きていきましょう?
幸い、彼には親しい友人も幼馴染も、存在しているのですからね!
どんちゃん騒ぎだって、一人なら怒られません。
底でしか見つけられない幸せを、彼はとうに得ていることでしょう。
大丈夫、この物語はきっと、めでたしめでたしで終えられますよ。
イバラシティでなら──それら全てが、正しいお話のはずだった。
少年は赤い空を見上げた。
あの街とは何もかもが違っている、壊れた色彩。
少年は息を吸い込んだ。
社会とは程遠い荒廃の臭いが、喉奥へ楔を打ったように染み付いていく。
少年は──思い返す。これまでの日々。記憶。そして、放送を。
『ワールドスワップ』。今でも、信じきれていない。周囲の音が静まっていく。
そんな能力が、本当にあるのか。あっていいのか。
戸惑いばかりだ。わからない。わからない。遠くの空で何かが落ちた。
それでも、少年は、こちら側に来てしまっていた。
侵略者の側へ。
「なら迷うことなんて無いのか?」
手に止まった蝶を見下ろして、少年は確かめるように呟いた。
だって、ああ。そうだ。
ずっと考えていた。もしも、そうであるならばと。
もしも世界を変えられたなら。
もしも──もしも、生きやすいように生きられたなら。
苦痛だった。
苦痛だった。苦痛だった。苦痛だった。
本来あるべきように、なることが出来なかった。
それも、もう終わると──信じていいのか?
そうだ、アンジニティでは、違う。
アンジニティに行けば、違うんだ。
侵略という行為で、単純な支配ではなく交換という形が選ばれたのは、何故なのか。
報復のリスク。異能の都合。それらもあるのかも知れない。
しかし、それで勝算が見込まれているということは。そこから逃げたくなるということは。
きっとずっと──アンジニティというのは、ひどいところなのだろう。
倫理や道徳なんて、無いところなんだろう?
少年は──正真正銘、イバラシティの住人である十日夜レキは、思う。
そこでなら、そこでなら。
吸い込んだ息を吐く。たったそれだけのことが。あの街よりずっと好きに行える気がした。
赤黒い空気さえもが、何処までも澄んでいるように感じられていた。
落ち着いていく。落ち着いていく……
「自由だ……」
枷はもう存在しない。そのままでありたい。妥協しなくていい場所に行きたい。
こうしてチャンスが与えられたなら、それを押し通すだけの力が、僕にはあるはずだ。
『同じだったら、普通だったらよかった』
そんな後悔を抱かなくていいように。
『異能は、制限されるべきものではないと』
だから、本当に自由にやるために。
なあ……、もう、いいよな。
僕がこっち側に飛ばされたんだったらさ、
もうやるしかないってことだろ。
世界が僕を許してくれないなら、
世界の方を変えるしかないよな。
みんな一緒について来てくれよ!
──蝶が力なく地に落ちた。もう、必要ないからだ。
綺麗さを取り繕うための外面はいらない。
代わりに起き上がるものがある。
飛ぶのを停止した虫。遠くの空から墜落した鳥。
それらは全て、地に落ちていたはずだった。微動だにすること無く。
いいや、違う。
脈動すること無く、転がっているはずだった
動き出している。集っていく。再び、偽りの鼓動が広がっていく。
とどのつまり──少年の異能は、そのようなものだった。
ずっと、最初から。
唸るような虫の羽音が沸き起こる。
雪崩のように鳥の羽ばたきが殺到する。
軍勢の全てを、思うがままに動かせている。
おぞましい、おぞましい、おぞましい──
そうだ、それが僕の異能だ。
大丈夫、この物語はきっと、めでたしめでたしで終わらせてやる。
なら、迷うことなんて無いさ。奈落の底に落ちていこうか。
さあ、始めよう。今日からが、僕の終末。
十日夜レキ
彼はイバラシティの住人であり、敵となる。
彼の目的は、ワールドスワップの成就である。
彼は認められることのなかった異能を持つ。
彼の異能の名前は──