
「彼と名前の関係」
騒乱の世界にやってきた、侵略者としての立ち位置の彼。
この世界ではアーテルと名乗っていたね。
彼は元々純粋な人間でなく、もっと不確かな"なにか"であった。
今日は、そんな彼が"彼"として自己を確立するようになった、所謂由来ともいえる「彼と名前の関係」について筆を執ろう。
「名前とは最も短い呪である。」とは誰がそう言ったものか。
しかしながらその通りと僕は思っている。
それは種族自体を表すものかもしれない。
あるいは種族の中から特定の誰かを指すものかもしれない。
一口に名前といっても、そのときそのときの定義は変わるものだ。
ただ、ここから述べる"名前"とは、あくまで特定の誰かを表すものを指すこととしよう。
それは誰かから呼ばれる名前…第三者が認識する誰かの名前かもしれないし、
誰か自身が認識している自分の名前かもしれない。
ここで大切なのは「これは〇〇である」と自ずと定義付けていることにある。
自分とは何か。を端的に表すのに、名前を使っているんだ。
君たちも初対面の相手にはたいてい自己紹介として、自らの名前を明らかにするだろう?
自分と名前を繋げて、相手に伝えるだけでいい。
相手に自分を覚えてもらうには、名前は非常に便利な道具といえる。
ここで、名前を使わずに自分を誰かに認識してもらおうとしても、それはとても困難なことだ。
なぜなら、名前程便利に特定の誰かを限定できる要素はないのだから。
奇抜な見た目だった場合は伝えられることはできるだろう。
しかし、それは千人が千人同じ人物を挙げられるかと言われれば怪しいものだ。
テレビ番組で見たことあるだろうか。ゲストの特徴を様々な人に挙げてもらい、出演者に当ててもらうというコーナー。
端的に言えば、あれと同じことになる。各々の抱く印象は、それぞれ違うものだ。
それを合わせたところで、特定の誰かに繋げることはそう容易ではない。
しかし名前を使えば、知っている人はほぼ全員が特定の誰かを思い浮かべるだろう。
ここで、同姓同名について扱うことはしないでおく。話がややこしくなるからね。
話を戻そう。
それは元は"名前の無いなにか"であった。
名前を持たないのではない、"名前が無い"んだ。名前が無いことが特徴、と言い換えられるだろう。
名前が無いということは、すなわち特定の誰かではないといえるかもしれない。
あるいは、誰も知らない新種の生物かもしれないし、生物でもないかもしれない。
それは、意図的に他の誰にも自身について定義されない状態を作り出していたんだ。
これはとても恐ろしいことだよ。
なぜなら、言い換えてしまえば自分と他人とで見えたそれが全然違うものかもしれないのだから。
不定の状態とは、そういうものだろう?
しかしながら、彼はとある一件で"自分を表す名前"というものを獲得してしまった。
そう。"名前の無いなにか"が、"自分を表す名前"を得てしまったんだ。笑い事だね。
しかし、その"名前の無いなにか"は世界から自分が何者か定義されないということと、"自分の名前を持つ"ことで自分は特定の誰かであるという二つの性質を合わせ持つことになる。
これが、自分の都合がいいように、姿、形を変える性質になるわけだ。
彼の言う「誰かであって、誰でもない」というやつだよ。
どうやって自身の名前を含めてこの力を手に入れたかについては、ここでは割愛させてもらおう。
さて、これは所謂"変身"というやつだよ。君たちももしかしたら見たことがあるかもしれない。
簡単にやっているかもしれないが、これは世界を騙す類の異能だ。
各々が抱く共有のイメージ、特定のそれに対して一般化された概念、
それは例えば…誰が見ても「これは猫である。」となるように自分を定義してしまうわけだ。
こうすると、周りからはそれが猫であるように見えてしまうし、世界からそう認識されてしまう。
それは間違いなく猫の姿だし、猫の体重だし、猫の背丈だし、あらゆる"猫"という要素で自分を包み隠すことができる。
しかしながら、本質は"名前の無いなにか"が持ち得た"自分"なのだから、そこは変わらないで済む。
彼が流暢に喋るのは、それが"自分"の部分だからだろうね。
「世界は自分を"猫"と定義するが、自分は自分を"猫"ではないと定義する。」という重ね合わせの状態を生み出せるわけだ。
ただ、変身はできても、特定の誰かが持つような経験や感覚までは模倣することができない。
これについては、勘のいい人なら気づくことができるかもしれない。
彼が特定個人に変身することがほとんどないのは、この辺りに秘密があるのだろうね。
さて、その異能に弱点がないわけでもない。
前提としてある「誰かであって、誰でもない」という状態を崩せばいいのだ。
ここで重要となるのが、"自分を表す名前"というわけだ。
彼は彼自身が認識する特定の誰かである。と周りから強く認識された途端に前提が崩れるので、その異能は一時的に効力をなくす。
具体的には、名前を呼んであげればいい。彼の"自分を表す名前"を。
ここまで彼と名前の関係について記してきた。
言いたいことは冒頭で述べた「名前とは最も短い呪である。」ということかな。
彼は変身する異能を手に入れたばかりに、自分の本来の名前という弱点…呪いを背負ったんだ。
仮に、彼を攻略するのなら、そのあたりから攻めては如何かな。
黄泉常夜 記す。