ラプリナにとって、存外早くその時は訪れた。
イバラシティと、アンジニティの両陣営の争いは厳格かつ絶対のルールの中で行われている。
それは、『ハザマに飛ばされるたび、最初に飛ばされた時の状態に戻る』というもの。
これは助かる面もあれば・・・ラプリナのような、極大の悪意を抱えた者にとっては行動を制限する邪魔な鎖でもあった。
最近では、ちょっとした罠を張りそれなりの被害を出させることに成功はしたが・・・やはり片手間なモノであり、精神的な苦痛・傷害は与えられたとしても肉体的には健全な状態に戻されてしまう。
ある意味では、『何度でも相手を蹂躙できる』という事でもあるのだが・・・如何せん、相手は能力者であるし、本来のラプリナの狩り方であるような拠点を作り誘い込むという方法も中々に取りにくい。
アンジニティの世界において築き上げていた根城は崩壊し、中に捕らえていた者たちもこのワールドスワップに乗じて全て逃げ出している。
ラプリナにとっては非常にフラストレーションが溜まる状態であった。
しかし、今こそ・・・想定外の事態により、侵略戦争が止められている今こそが、ラプリナの望んだ瞬間である。
ルールも凍り付いた今なら、またアンジニティの世界に引きずり込む事も、永遠に残る致命的なダメージを与える事も出来る。
本来は侵略戦争の終了したタイミングで動く予定であったが、望外の幸運であった。
「幸運のウサギは白兎の筈なんだけどね、・・・あは」
止まった時計台を跳び越すような勢いで、ラプリナは駆け出す。
普段は出さない、本気の力だ。出さない理由は簡単で、単に面倒なのと・・・こういったタイミングでこそ、本気になるべく温存していたのだ。
赤い空の下、邪悪な影が動く。
さあ、・・・・・・侵略が停まったからと言って、今最も危険な時間に気を抜いている哀れな獲物は居るだろうか?
○Eno273 一ノ瀬 百
一ノ瀬百(モモ)は、イバラシティの教師である。
元来、戦いとは無縁であり、持っている異能も戦いにはお世辞にも向いているとはいえず、性格も人が傷つくのが嫌、という、この侵略に於いて最も割を食っていた人種でもあった。
だから・・・理由はよくわからないが、ハザマ時間が停まり、侵略も合わせて一時停止されるという状態に多少の安堵を覚えた。
そこで、改めて知り合いの様子を伺おうという気になり、パーティーの皆から一旦離れる事となる。
・・・モモは暗い世界を進む。殆どが廃墟やそれに近い様子の建物で、いくらかは機能しているものもあるかもしれないがそういうところは硬く入り口も閉ざされ中を伺う事は出来ない。ここにも住人は居るのだし、社会のようなものは築かれているはずなのだが、やはり資源は圧倒的に足りないのか、形は都市であっても粗野な集落の中にでもいるかのような感覚を覚えた。
そう、粗野どころか、凶悪な世界に居るのにもかかわらず、モモにはその意識が十分とは言えなかった。
背後に何かが降り立つ音、振り返るよりも早く、手袋に包まれた手がモモの口を塞ぐ。
驚き、抵抗しようにもその力は非常に強く・・・更に片手で腕を捻りあげられ、くぐもったうめき声しか上げられない。
「ふうん・・・?危機感もないし、力も無い・・・いや、あるけどこの状況で使えない、のかなぁ?」
背後から聞こえてきたのは女性の声。それに少しだけ安堵する、が・・・まともな女性であるならばこんなことをするはずがない。
必死で体を捩り、拘束を振りほどこうとするが毒婦の手は外れない。彼女に触れられているところが力と、何かしらの異能だろうか、しびれのようなものを伴ってとてもとても気持ちが悪い。
凶行に及んでいる女、ラプリナはそのまま手ごろな廃墟の扉を蹴り壊し、中にあった壊れかけの台の上にうつ伏せになるようモモを叩きつける。
台のささくれが容赦なく肌を割き、衝撃もあってかひゅ、と声が出る。
女は無言で縄のようなもので手を拘束している。モモは、体から流れる血を感じ、突然の事態で混乱する思考の中、今しかない、と異能を強く強く発現する。
モモの異能は、薬物生成・散布能力とでもいうべきもので、生成されたソレを周囲にばらまくことが出来る。
本来はこれで人を害する事は出来ない程度であったが、ハザマで能力が強化されている今なら・・・普通の人間なら昏倒、最悪死に至ることすらあるかもしれない。モモとしてもこれを好んで傷つけるために振るうのは気が進まないが、この状況では必死の抵抗として当然の行いであった。
モモの周囲に、目に見えぬ毒がばらまかれ・・・ぴたり、とモモの拘束を終えたラプリナが止まる。モモは硬く目を瞑り、己の所業の結果・・・敵対者が倒れる音が聞こえるのを待った・・・が、それよりも先に気の抜けたような声が欠けられた。
「・・・・・・・・・なんだ、毒かぁ。ごめんね、普段から体内に直接毒ぶち込んでくる奴相手にしてるからさぁ」
スターシャちゃん元気かなぁ、と呟くラプリナは、言葉の通り毒に焦る様子も怯む様子も無い。
必死の抵抗の、あんまりな結果に目を見開いて固まるモモを、普段の陽気さが鳴りを潜めた、とても冷たい、実験動物でも見るような目をした兎の女の眼光が射竦める。
「ちょうどいいや、・・・前にも身体強化とか出来なさそうな子を間違って壊しちゃったし・・・フツーの人間って相手にする機会滅多にないのよね」
皮肉気で、弾むような声が、ストンと不吉に落ち着く。
ラプリナは元来、気分屋である。明確に楽しむことを目的とすることもあれば、不意の思い付きの為にそれを蹴る事だってある。
どちらにせよ、それに巻き込まれた者にとっては堪ったモノでは無いが・・・今回は、気分のダイスは最悪の目を出したらしい。
「ねえ、普通の人ってどのくらいまで耐えられるのか、・・・教えて?」
興味と実験だけで動く、毒婦の手が百の体を這う。それは優しい動きでは無く・・・体の一部を掴むと、そこに付随する関節が本来曲がってはならない方向へと機械的に、ただ強度を測る様に・・・そしてその先を知る為に、動かす。
モモの中から音がした。
続けて脳を焼くような痛み。喉から漏れる叫びを、意識がどこか別人のように聞いていた。
全力で暴れても、変わることのない責め苦。
それは続く。位置を変えて。強さを変えて。やり方を変えて。
続く。
暗い世界の片隅で、食いしばるような呻きと、体が壊れるような音がしばらく響き・・・
それらがすべて終わる前に、モモは明滅する思考の中で
(約束・・・守れなくなっちゃったな・・・)
意識が途切れる前に、それだけを想った。