黙し告げぬ天津風は幾度として世界を救ってきた勇者である。
世界の命運を委ねられ、その身に60憶の生命を背負いて終ぞ世界を脅かさんとする魔王を討伐した英雄である。
始まりは些細な切欠だった。『勇者』として自分が魔王と何れ敵対することになるのだと、何となくの予感を感じていた。
1102つある歴代の勇者の慰霊碑がある街――嗚呼そこはきっと故郷であったに違いない――場所で、己もまた彼らに続いて勇者になるのだと使命感にも似た感覚を胸に刻み、旅立った事は辛うじて記憶していた。
出奔したのが齢15の頃で、3年かけて己は強くなり続けた。元々天武の才があったのだろう。来る敵来る敵をばっさばっさとなぎ倒し、怖すぎる程順調に困難を踏破して来た。魔王の幹部を倒して城を走破し、遂にこの手で魔王を仕留めたのだ。
ここまでの道程は長く険しいものだった。幾度も死を悟っては諦めそうになり、それでも歯を食いしばって拳を作って窮地を脱したことは一度や二度ではない。数えきれないほどの壁にブチ当たる度に使命感と根性を胸に抱いて、どこまでもどこまでも突き進んでいた。
誰かの為、世界の為。すべての悪しき者達を斃し、弱者を救い続けた結果、己は魔王を討伐するに至った。
天津風ヒトミという存在は歯を食いしばってでも不屈を為し、敵に掛ける温情も何も与えぬ「黙し告げぬ天津風」という名で世界に響き渡り、世界に一度、晴天と吉報を与える神からの救済にも等しい偉業を成し遂げたのだ。
かくして世界は輪転する。
魔王を斃した直後にまばゆい光に包まれたと思いきや、己の意思とは無関係にすべてが差し戻されていた。己の年齢も姿も、町並みも何もかも。
ただ一つ、倒したはずの魔王の角が己の頭に宿っていることを除いて。
『魔王を打倒した、おめでとう。さあ次の魔王を倒しに行こう』
そんな幻聴を耳にした気がして、勇者は暫し惚けてしまった。
記憶はまるで夢から覚めた時のように曖昧で、これまで得た冒険の知識すべては胡乱なものになって曖昧化する。一時間もすればきっと忘れる程度の、何でもない些末な記憶だ。
なぜこんな既視感を抱いているのか疑問に感じる。嗚呼、夢でも見ていたのだろうか。
どうしてか体に染みついた経験は旅立つ前よりも軽やかで、澄み渡る青空のようにどこまでも行けるという万能感を与える。
勇者は頭に叩き込んだ筈の知識と記憶のすべてを剥奪されながら、経験値をそのままに世界を流転する人々の希望たる勇者そのものになることが出来た。
その頭骨から魔王がかつて宿していた異形の角が、片方のみ携えていることで一度討伐を果たしたという証を示す。
勇者がつんと触ってみるととても鋭く痛かった。指先から流れた血液を舐め取ると、自然と笑みがこぼれた。
これから新たな冒険が始まる。ただ使命感に駆られるがままに勇者として、根性を抱いて前へと進むのだ。
「……ッ、うぇ」
廃墟と化したラブホテルを散策した結果、獲得した缶詰を手に個室に引き籠り、口に含む。味はたいして美味しくも無い。この世界では『不思議な食材』として一貫して通している肉だか魚だかも分からない物体を咀嚼しながら嗚咽を零し、黙し告げぬ天津風は深く嘆息した。
彼女は心底うんざりしたと舌打ちをしながら粗食を食べ終えるとベッドから跳ね起きて外を見る。終末世界を思わせる天と地の荒廃した世界が広がっていた。
ぐっと伸びをしてから外へ出ると、扉の反対側の壁に死体が突き刺さっている。赤色の命の泉だったものが点々と続いている場所を見遣ると、廃ホテルを占領する際に抵抗して来た組織ぐるみでハザマにやってきた者達の物言わぬ体がそこかしこに転がっていた。
「勇者に逆らうからこうなるのよ。現代世界に逆転生したわけじゃあるまいし、弱者だと視られたのかしら」
腕を組みながら缶詰の蓋の裏にこびりついた油と肉の欠片を舐め取り、雑多に放り投げて、死体が連なっている通路を歩く。
床に散らばる臓物は大した差は無かった。多少なり煙草や酒で汚れたものもあるのだろうが、どれもこれも似たり寄ったりだ。少なくとも――
「全テハ正義ノ為――」
己の影にへばりついている『成れの果て』よりは、余程血の通っている存在に違いない。
片角しかない女に比べて黒色が目立つ容姿をしていた。頭の両サイドに角を生やし、殆ど裸身といっても過言ではない見目麗しい女体の影が太陽光から照らされる影の法則を無視して地面の中に沈み込みながらも本体の動きと独立してうごめいている。
黙し告げぬ天津風の使役するエイドや従者、異能ではない。これも黙し告げぬ天津風そのものだ。
ハザマ内では異能がより強固になるという特性を利用し、常時発動型である『諦めない』異能を最大限に活用して世界に留まり続けている。
本来黙し告げぬ天津風単体で出て来る筈だったのが、異能のゴリ押しによって成れの果ての体まで出張る形になってしまっていた。
しかし彼女にとってそれは些細なことだった。タイムパラドックスだとかそんな細かい理論は詳しくないものの、こうして同じ舞台に立てているということは、勇者が複数いなければこの事象への対処が難しいのだろうという神の選択だと判断したのだ。
「悪い奴らは、イバラシティの悪。ヒトミがイバラシティをすくわないと」
「然リ――悪ヲ許スナ。世界ニ、平和ヲ……誰カヲ救ワナイト」
まるで水たまりのように丸い形を形成した後、影は赤色の光を宿して這い上がった。ぼうっとした光は影の眼に相当する部位で、本体の碧眼とは似ても似つかない程に生気を感じられない。
およそ飲食が必要な体ではなく、排泄器官もあり、性欲に駆られることも生理で沈み込むことも無い。影の黙し告げぬ天津風はそれでも生きていると断固として己を貫いている。
「侵略コソ救済。勇者ガスベテヲ、助ケナイト」
こうしてぶつぶつと怨恨を撒き散らすかのように呟く成れの果て。それを気味悪がらずにして、女はさも当然という風に堂々と返す。
「分かってるって。アンジニティに墜ちるまで酷使しても世界を救おうと頑張るなんてカッコイイじゃん」
黙し告げぬ天津風にとって、それは憧憬の対象だった。狂人のような思想と思考を一貫して、光に向かって突き進み、最後まで人々を案じて世界を救うことを理想として掲げ、最後には勝利を成し遂げる。
いかに人から見られない姿になることが出来なくなったとしても、自分自身を貫き通して正義を執行する姿に、二周目の黙し告げぬ天津風は心酔していた。
廃ホテルから出た後、次のチェックポイントまで大分距離がある事が判明した。
まずは新しい拠点を目指すことにしよう。もう少し美味しいものを口にして、出の悪いシャワーじゃなくてお風呂に入ってからゆっくり考えてみることにしよう。
先ほどのチンピラ達から奪った金を適当して、適当にポケットに詰め込む。これくらいなら区間の移動くらいは問題ない。次元タクシーを利用することにして手を上げると、客を乗せたタクシーが何台か通り過ぎた後に空車のタクシーが目の前で止まった。
後部座席に座り込みながら、背もたれにぐっと体を沈ませる。
「チナミ区まで。適当な街道に出られればそれで良いから」
次元タクシーの運転手は不愛想に頷いてギアを入れ、車を発進させる。光の無い道路を車のライトだけが照らして流れていく。方々から別のタクシーのハイビームがチカチカと輝いているのがせめてもの救いか。
広い直線の道路に差し掛かったところで、運転手は意を決したようにハンドルをぎゅっと握り直すと、視線を僅かに後方へと向けた。
「それで――お二人を下ろせば良いんですね」
「二人……?」
「いえ、そっちのお連れさん……」
運転手が目配せしたほうを見ると、後部座席の左側に白色の瞳を携えた真っ黒な女性が佇んでいた。
黙し告げぬ天津風の足元から這い出ていて、脹脛から下は黒塗りの座席で見えづらくなっているものの、太腿に手をしっかりと合わせながら背筋を伸ばし、姿勢よく座り込んでいた。
黒塗りの体は一糸纏わぬ姿というよりは黒タイツを着ているような容姿だが、車のライトに照り輝きも発生しないからついつい見逃してしまいそうになるが、ルームミラーで確認できる程度には実在性を確かめられる程度には見た目がはっきりとしていた。
「……えっと、はい」
さしもの困惑の色を巡らせながら本体は視線を迷わせた後、歯切れを悪くしながらも肯定した。
「……なんで乗り込んだの」
影に沈んでいれば料金も安く済むというのに、小声で捲し立てていると、黙し告げぬ天津風の成れの果てはさてはて、と疑問を抱いたのか首を傾げた。
茫洋とした白色だけが輝く瞳はまんまるとしていて、一瞬何を言ってるのかわからないと言われたかのように沈黙を続けて数秒。人に似つかわしくない大仰に開いた三日月の形をした口許がパクパクと開かれる。
「無賃で乗るのは正義に反する……?」
勇者ならば、金を支払ってきちんと対価を払わねばならない。この場に勇者が二人いるなら、娑婆の人間には平等に接してやらねばならない、というのが勇者たられば。
対立せず中立の立場でいる運転手には相応の所為をしなければならない。
「……肝に銘じておく」
ヘンなところで理性的で、ヘンなところで律儀だとごちる。
成れの果ての勇者としての在り方が垣間見えた気がして、女は視線を逸らす。到着するまでの間、頬杖を突きながら窓の外を流れる光を眼で追いかけるのだった。
気付けば一時間が経過していた。