それを恨みと呼ぶにはおこがましい、とも思っている。自分が何者であったのかを「思い出す」というよりは、奇妙に混じり合っているような感覚だ。えら呼吸も、肺呼吸も、どちらのやりかたも知っているような――あるいは、どちらもまともに出来ないでいるのか。それは意思があるものなのかどうか、意思あるものとして街を彷徨う俺にとっては判断が難しい。強いて言うならば、飢餓。満たされていたものがそうで無くなって、欠けてしまったので、求めている、といった具合に近い。動物的?複雑な機構は見られない。現象、に近いだろうか。「それ」にとっての信仰は湖の水に等しく、「それ」は、今や湖に空いたシンクホールそのもの、で。空いた穴が、水を、環境を、無に帰すことは、意思でも使命でもなく、現象だ。
いっそそのようになりたいとすら思っていたのだが、実はそういうものだったのだ、と。
自覚してみれば、なんとも奇妙な心持ちだった。そういうものになりたい、というのは、つまり「意思無きまま現象を起こす」ものになりたい、ということで。意思をこうして持ってみると、街にいたときと考えていることは変わらない。今あるこの意思を捨てれば楽になるだろう。
だが胤は十二分に撒かれていない。
そのシンクホールは信仰を無に帰す現象だ。
肉を蹂躙するのは、肉だ。意思を蹂躙するのは、意思だ。
吹き出した汚泥で世が満ちるには、まだ、俺が必要なのだ。価値がないからこそ。
忌々しいことに。
ああ、それでも、
穴の空いた湖にできた空間、というのか。
やがて全てがなくなったら、そこはずいぶんと広々することだろう。
そこで一度水を飲むことなく大きく息を吸えたら、俺は、たぶん、
現象の「それ」は、……
いや、どうなんだろう。どうなるんだ?
蹂躙が済んだら、どうなるのか。
誰かに意見を聞いてみようかとあたりを見回したが、
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「……」 |
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「…………。」 |
なんだか話が通じなさそうな影だらけなので、今は気にしないことにした。
思ったより多いんだな、現象的なタイプの人。