あの街で生きている間、自分が手にしている幸福を疑った事なんて一度もなかった。
イバラシティにいた時、オレは確かに「折和逢音」だった。
イバラシティで生まれて、お袋に育てられて。友達がいて、同僚がいて、おじさんおばさんや幽綺がいて。イバラシティのみんなに囲まれて過ごしていた。
賑やかで、くだらなくて、温かい毎日。退屈な一日や最悪な一日、楽しい一日が積み重なった22年間。
それが、全て嘘だった。
「折和逢音」は本来存在しない人間だ。侵略のために用意された、世界を欺くための大嘘。
だからオレとイバラシティの人間には、何の関係もあるはずがない。家族も親戚も同僚も友達も、全部嘘だ。イバラシティで過ごしてきた22年間の記憶も、薄っぺらい作り物でしかない。
オレとあの街の繋がりは、全て偽物だ。本物は、ここにいるオレだけ。自らの手で幸福を壊し、全てを失くした、哀れで愚かな咎人。それが真実の「アイネ」だ。
だから、あの街の人間の事なんて何とも思わなくていい。ただ侵略して、壊して、奪えばいい。そうすれば自分もきっと幸せになれる。
──けれど。あの街で過ごした記憶が、侵略のために与えられた仮初めの名前が、その邪魔をする。
学校帰り、いつも隠れて泣いていた幽綺。友達が次々と離れていって、ひとりぼっちにされた幽綺。父さんや母さんに心配をかけられないからと、オレだけに全部を話してくれた幽綺。
幽綺はいつも一人だった。オレだけが頼りだって、泣きながら縋ってきた幽綺のちいさな手のひらを今でも覚えている。
イバラシティの「折和逢音」は、そんな幽綺を守ってやりたいと思った。
アンジニティと呼ばれたオレは、何を犠牲にしてでも幸せになりたいと願った。
侵略が成功したら、ずっとイバラシティにいられる。もう、あんな掃き溜めのような場所に留まる必要はない。クズみたいな生活ともおさらばだ。
でも。侵略が終わった後の街に、「折和逢音」が守りたいと思った人はいない。
オレは、「折和逢音」を捨てられない。オレが願った幸せは、折和逢音の中にあった。
侵略に加担すれば、折和逢音の幸福を壊してしまう。けれど、イバラシティに付いた所でずっと街に留まれるわけでもない。
結局。折和逢音の幸福は、いつかは終わる運命だ。所詮は仮初め、一時の夢でしかないのだから。
どうせ叶わないものならば、自分の手で壊すよりも綺麗な思い出のまま胸に留めておきたい。二度も同じ事を繰り返すのは、もうごめんだ。
イバラシティを守る事は、幽綺を守る事にも繋がる。アイネにとっての幸福は掴めなくても、折和逢音にとっての幸福は守られる。それでいい。
大丈夫。今度はきっと、うまくやれるはずだ。もう、誰にも──オレ自身にも、この幸福を壊させやしない。
オレは今度こそ、愛する人を守ってみせる。
──EINNE