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【某日】鏑木ヤエの場合 - 1
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「エエーー。ヤエ、休憩したいです。休憩しましょうよ。四人でさあ。
四人で割ったら、ひとり千円しねんですよ。安いとこなら八百円で済みます。
算数できます? できますよね。できるに決まってんですよ。
……あの、こんなに休憩したいって言ってる女の子をよく平気で置いていけますね……」
わたしの強引な誘いに、一度は首を縦に振った三人の男が三者三様にそれを拒んだ。
一人は、「バカなことを言ってる暇があるのかよ」と言って。
もう一人は、「まだまだやれるぞ! こんなところで音を上げるのは鍛え方が足りない」と。
そして最後の一人は、「可哀想に。でもお兄さんも、まだ頑張れると思うなあ」……と言って。
わたしはわかりやすく肩を落とす。嫌なのだ。つかれることも、頑張ることも。
それでもこうして三人の背を追いかけてしまうのは、どうしてだか。
悔しいけれど、わたしの中にも「負けたくない」なんて気持ちがまだ残っていたのかもしれない。
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この街は、平凡でどうしようもないほどにありきたりだ。
ありきたりであることは悪しきことではあらねど、それは停滞を齎す。
だからこそ、わたしは、その停滞を甘受する人間に痛い目を見てほしいと思った。
彼らが「そういう」人間であるとは言う話とは接続されることはない。一人を除いて。
だけれど、この話はまだしないでおこう。なぜなら、わたしは愚かにも希望してしまうから。
この話は始まったばかりであり、それを咎めるのは早計すぎる。
大好きな――だいすきな。たまにひんやりとした手を伸ばしてくれる彼。
美術教師の彼。どうしてだか、わたしに世話を焼いてくれる優しい彼の話もしよう。
彼は、わたしの憎んでやまない停滞すらも、その両手に抱きしめてみせる。
それは大人なりの余裕なのかな、とも思ったけれど、そんなこともありはせずに。
ただただ、彼はありとあらゆるあり方を、あまり否定しないように見える。
導くことこそあれど、彼は受容ののちに、じわじわと食むような愛を注ぐ。
それは、わたし。鏑木ヤエにはできないことであって、わたしが甘受してはならぬものだ。
それにそもそも、あの愛はきっとわたしのものではない。そんな気がする。
なのにこうして、「自立できないふり」をしてみせる。一人で立てないふり。
それはどうしてそうなってしまったかというと、寂しいからだ。
「こう」すれば、誰かが世話を焼いてくれると。一人じゃなくていいと思えるから。
――一種、これはわたしにとっての存在証明だ。
だから、逸脱をしたふりをしながら、停滞を拒んだふりをし続けること。
他ならぬ自分が、この町の平凡さに飲み込まれないための自己防衛。
そして、本当の意味で逸脱してしまったものたちに飲み込まれないための防衛策。
だから、あの愛しの愛の巣も。人目につくところに置こうと思ったのだ。
人目につく場所であれば、それこそ目に入るだろう人も通り掛かる人も桁違いなのだから。
故にわたしは、不特定多数の「誰か」のために(なっていなかったとしても――)
DVを研究する。自分以外の他者の存在を啓蒙する。当然になってしまった隣人という感覚を殺す。
その当然が、当然ではないということを啓蒙する。
あなたを害するかもしれない誰かは、すぐ横にいるのだということを誰もに伝えたくて。
そういう意味で、人間なんてひとりきりなんだということを、知らしめたくて。
特別な誰かなんて、とうにいなくなってしまったわたしのみじめさを拭い去るために。
――だから、話に聞いていた「悪しき隣人」の話はわたしにとって手頃で仕方なくって。
それを便利に使った。使えると思った。疑って、誰もが一人になってしまえばいいと思ったから。
だから、すべての行動にはわたしの悪意という指向性がある。
わたしの悪意が、隣人を疑念に駆らせればいいと、まず最初の敵になろうと思った。
わたしみたいな小娘が、隣人に敵意を向けられるというのは簡単なことではないのだ。
人の「愛する」言葉を掲げて、まず小手先にその愛を手軽く踏み躙って。
それで、思い出してもらいたかった。誰もが善人ではないこと。自分の行動の指向性を。
――ここまで言えば、きっと、わたしが戦う理由は誰だってわかるだろう。
簡単なことでしかない。それに、ひどく下らない独占欲にすぎないし、笑われてしまうだろう。
……わたしが壊してしまいたい世界というのを、先に壊されては困ってしまう。
ただ、それだけの話でしかないのだ。だから、わたしは世界も守る。大事に大事に。
だから、わたしは「彼ら」に先を越されると困ってしまうのだ。だから、結果的に。
敵の敵は味方というのは割と言い得て妙だな、と思った。
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「なんでそんな休憩嫌がるんですか。別にただの休憩ですよ。休憩したことねんですか?」
「休憩休憩言うのをやめろ! 君の休憩と俺の休憩は意味が違うんだって。
いや、まあ、その……なに? なに。いいから。やめなさい」
「ナニを」
「お、休憩の話か? 休憩はいい筋肉をつけるためには必要だろ?
いつも休ませてばっかりじゃ駄目だが、動かしたあとにしっかり休憩することは大事だ」
「ほら。馬締正面もこう言ってるじゃねーですか。まあ、休憩中も動きますけど」
「やめろ!!!!! 馬鹿!!! 君はこの話に混じろうとするな!! 拗れる!」
「馬締正面ですら休憩に躊躇いがないのに、渡辺慧。ヤエはがっかりしました」
「いやあ、お兄さんは若いみんなが楽しそうで嬉しいよ。
やはり、僕は君のような人間に関わって生きてきたのかもしれな――」
「言わせねえですよ。おい、君、ヤエ、話が拗れることをわかって、」
「一人だったら休憩してくれたってことですか? 気持ちがわかっていなくて……。
ヤエ、どう詫びればいいのか……。身体ですか? 身体で許してもらえます?」
「いけないよ、妹ちゃん。もっと自分の身体は大事に」
歩きながら、そんな馬鹿話をしながら往く道すがらは存外悪いものではなく。
悪いものではないからこそ、彼らが自分のことを嫌いになる日のことは、まだ想像しない。
いまは、それは不必要なことだから。いま必要なのは、
「いいですよ。注文の多い男ってのはモテね―もんですよ。ああ、いや、逆に。
渡辺慧はヒモっぽいですからね。そっちのがいいかもしれねーです。
これはこれは失礼しました。付き合って半年記念日の今日にも全然わからねーで」
「何もかも間違ってるんだが?」
道を、つくることだ。