持っていたら便利だから、といつかにお母さんに言われたのを思い出して、ふと思い立って教習所に申し込んだのが数ヶ月前。仕事の合間を縫っての教習所通いは思ったよりも厳しくて、ずいぶん時間がかかってしまった。期限間近に駆け込みで試験までこぎつけて、ぎりぎりの採点で合格し、ようよう人生初の自動車免許を受け取った。
お金が無駄にならずに済んだなという気持ちだけで、嬉しいとか感慨深いとか、そういう上向きな気持ちは特になかった。どうせ車も持っていないし、実際してみてわかったけれど、車の運転はあたしにとって、そんなに楽しいものでもなかった。
まあそれでも少しはお祝いしたい気持ちはあって、仕事上がりにエクセラ地下でちょっと贅沢なお惣菜と、どこか外国の、パッケージがかわいいビールを適当に買った。
ビニール袋をぶら下げて、チナミ駅から電車に乗る。扉近くの手摺りに寄りかかると、ふとガラスに映る自分と目があった。首を傾けて覗き込む——きつく引いたアイライン。マスカラで色を変えた眉。真っ赤なリップ。どれも崩れていない。大丈夫。
あたしはメイクしている自分の顔が好きだ。文字通りに化けるとまではいかないけど、ひとつの線、ひとつの色を置きながら、今日の気分やなりたい自分を表現していく。あたしは自分の身体で何かを表現することが好きだ。それはメイクやファッションに限ったことではない。それをわざわざ人に言う事はないし、本当になりたかったものにはもうなれないけれど。
ふと、スマホケースにしまっておいた、作りたての免許証を取り出してみる。自分で撮る時は基本的にメイク顔だから、と思って、なんとなくあえて素顔で撮ってみた証明写真は、安っぽい青い背景も相まって、いつにも増してぼんやりした、ずいぶん薄い顔に見える。
やっぱり化粧して撮ればよかったかな。なにせあと数年間これで行かなきゃいけないんだから。まあ、今更どうしようもないし、誰に見せるわけでなし、別にどうでもいいんだけど——
はたと。
先ほどまで見ていた免許証はどこにもない。
手を表裏と返す。足元を見る。そこから連なる足枷を見る。
身体のあらゆる箇所に視線を這わせ、自分の姿を確かめる。
そうして次は、世界を見る。
時計台。
紫の瞳の女。
幾度かの瞬き。
目を細める。小さく肩を震わせて笑う。
長い髪が風もなく揺らめく。
ああそうか。
わたしはそのように顕現したのか。
それが、わたしに相応しい姿だと。
わたしに適った生き様だと。
なんとまあ——愉快なこと。
花田、杏奈だと!